夢見町の史
Let’s どんまい!
2012
February 03
February 03
※今作には残虐な表現や性的描写が含まれています。
お読みになられる際は充分なご覚悟のほど、よろしくお願い申し上げます。
------------------------------
「そなたのような人ならぬ者の血が赤いとは不可解な」
女王は言って、笑います。
彼女がけたたましい声を上げながら鎖を振るうと、男は顔面の痛みのために悲鳴を上げ、床を血で汚しました。
男は後ろ手を縛られており、うつ伏せのような体勢で吊るし上げられています。
服の一切は脱がされていますが、女王のせいで全身はくまなく赤く濡らされておりました。
「ははははは! 良い気味じゃ!」
女王は、それはそれは嬉しそうです。
しかし彼女の目は少しも笑ってなどいません。
「そなたのような馬鹿でも、さすがに自分の何がどう悪いかを理解したであろう? 申してみよ。そなたの罪は何じゃ?」
しかし男は呻くばかり。
言語を発しようとはしません。
女王はしゃがみ込むと、男の髪を掴んで顔を自分に向けさせます。
「痛みの余り、口が効けぬか。では少しばかり治してやろう」
血に塗れながらも美しい手。
それを男にかざすと、みるみるうちに傷口が塞がってゆきます。
「どうじゃ? 話せる程度には痛みが和らいだであろう? さあ言え。そなたの罪は何じゃ?」
男はそれで、恐る恐る口を開くことになります。
「私の言葉が足りず、女王様に誤解をさせてしまうようなことを申し上げてしまいました」
「違うわ愚か者めが!」
怒声と同時に鎖が飛びます。
男の眼球に、それは強く当たりました。
男は身動きを封じられているせいで、もがくこともできません。
ただただ悲痛の声を上げ続けるばかりです。
そんな男に、女王は何度も何度も鎖を振るいました。
「そもそもは! おぬしが! わらわの言を勝手に曲解し! 先走って! わらわに無駄な忠告をよこしおったのだ! 愚か者! 無礼者! そなた! 聞く耳がないのか!? わらわが! 祭り事を中止にするなどと! いつ申した!? 言え! いつ申した!? それを! おぬしは! わらわに! 祭り事を続行すべきと! 馬鹿者が! そういったとは! 祭り事の中止を! 提案した者に! 申せ! 愚か者! 愚か者! 愚か者!」
女王が最も嫌うこと。
それは言葉が通じぬことでした。
説明の足りぬ者には「人に伝わらぬ言葉など言葉ではない」と責め、理解が及ばぬ者には「正確な言葉を正確に聞けぬ者は人ではない」と責めました。
今から記す物語は、遠い遠い昔の、ある国の御話です。
現代の巷では太古の男女が抱き合ったまま発見されたとか。
その数は3組に及ぶと耳にしております。
ですが、世にある抱き合った男女の遺骨は果たしてその3組だけなのでしょうか?
いえ、そうではありません。
永遠に見つからぬ4組目があるのです。
片方は男。
片方は女。
女は、誰よりも人に苦しみを与えた、この女王です。
彼女は常に拷問を行っておりました。
あまりに酷い拷問に耐えられず、自分の非を認めることで逃れようとする者は少なくありません。
しかし女王は不敵に笑みます。
「そうかそうか。ようやく解ったか。おぬしがどれだけうつけ者なのか、ようやく解ったか。人はな、頭が良いから人なのじゃ。言葉の通じぬそなたはしたがって、人とは程遠い。人間以下じゃ。そのような馬鹿は、わらわの国には要らん」
そう言って、今度は死に至るまで、何日間も苦しめ続けるのでした。
どんなに酷く痛めつけられても、女王に逆らい続ける民も稀にいます。
そのような数少ない人種にも、彼女は高らかに笑いました。
「ほう。ここまでわらわが尽くしても、まだ解らぬと申すか。おぬしほどの阿呆は珍しい。褒美に、先ほど潰したおぬしの目、見えるよう戻してやろう」
男の両目にしばらく手をかざしてから、女王は部下に合図をします。
すると、男の前には巨大な水槽が運ばれてきました。
中にはおびただしい数の小魚が泳いでいて、まるで風に散る花びらのようです。
「見えるか? 西より取り寄せた人喰いの魚じゃ」
水槽に肉を放り込むと、魚たちが一斉にむらがって喰らい、あっという間に骨だけが水底に沈みます。
「この魚、血の匂いを好む好む」
女王の目が、残酷な光を帯びました。
「おぬし、妻があったな? 連れてきてある」
「おやめください!」
何かしらの悪い予感を察して声を荒げる男の顔を、女王は冷たく一瞥します。
「うるさい」
言うが同時に部下の1人が手慣れた手つきで男に猿ぐつわを噛ませました。
石だけで作られた地下の拷問部屋に、男の妻が通されました。
彼女は男と同様に後ろ手を縛られ、一糸纏わぬ姿です。
「なかなか美しい女ではないか」
女王はそして、部屋中を見渡します。
「誰か! こやつを犯したい者はおるか! 何人でも構わんぞ」
おお、と声がして、兵士の数名が手を挙げます。
満足したかのように女王は深く頷き、他人の妻を部下たちに与えました。
男は「んー!」と何度も喉を鳴らし、激しく首を横に振り続けます。
その表情は、女王が最も見たかった光景でした。
女王は片手を自らの乳房に、もう片方の手を下腹部に忍ばせます。
自身を愛撫しながら、恍惚とした顔で命じました。
「大臣を呼んでまいれ」
やがて兵士たちが果て、男とその妻ががっくりとうなだれる頃、女王は舌舐めずりをします。
「おぬしの妻、おぬしが馬鹿なせいでずいぶんと汚されてしまったのう。言葉が通ずる程度の最低限の英知がおぬしにあればよかったのにのう」
言われた男は顔を上げ、涙をいっぱいに溜めた目で女王を睨みます。
「ははははは! まだ怒れるとは気の強い男じゃ! だが安心せい。おぬしの女、たっぷりと清めてくれようぞ」
女王の合図で女は吊り上げられます。
彼女の股から兵士たちの体液がボタボタとしたたりました。
女王は小さな刃を持ち、女の足に当て、すっと引きます。
白い素肌に、1本の赤い線が引かれました。
女は「痛い」と声を出し、男は再び激しく喉を鳴らせ、許しを乞うような表情を浮かべます。
女王はそれを、当然のように無視しました。
「そなた、わらわの言いたいことが理解できぬのであろ? ならばわらわも解らんな。そなたが何を望んでいるのか、わらわには見当もつかぬ」
そして女王は小さな刃を走らせます。
薄く小さく、女の足の指を、足首を、膝下を、太ももを。
女の足元では、白い物と赤い物とが混ざりました。
「この魚、血の匂いを好む好む」
先と同じことを言う女王の目の先には例の巨大な水槽があります。
男がそれに気づき、今までにない大声を喉の奥で鳴らしました。
妻は泣き叫び、全身全霊を持って抵抗しています。
女王はその悲痛な妻の声を男に聞かせるために、わざと彼女に猿ぐつわを使わなかったのでした。
妻の下半身は赤く染められ、もはや肌の色をした部分がありません。
暴れれば暴れるほど滴が散って、女王の服に紅色の染みを作ってゆきます。
自分の口元に跳ねてきた女の血を、女王はうっとりと舐め回しました。
「やれ」
ジャラジャラと鎖の音がして、女が吊り上げられ、水槽の上まで運ばれます。
地下室は、嫌がる女の声と、男の大きな唸り声でいっぱいになりました。
女は少しずつ、少しずつ降ろされてゆきます。
しばらくは足を上げて逆らっていましたが、やがて足の一部が水面に達してしまいました。
魚たちがバシャバシャと、まるで喜ぶ子供のように激しく飛び跳ねます。
女を中心に赤い物が広がって、水槽の中がどうなっているのか見えなくなりました。
女の悲鳴がさらに高く、大きく響きました。
男の唸りが、さらに激しく、大きくなりました。
女王の高笑いが止まりません。
女はさらにゆっくりと、少しずつ、少しずつ降ろされてゆきます。
その都度、魚たちが飛び跳ねました。
女王は先ほど呼んだ大臣を自分の背後に立たせます。
大臣は既に下半身を露わにしており、男の中心を突き立てると、そのまま女王の中で踊らせました。
貫かれながら女王は喜び、白目を剥いている気を失っている女と、血の涙を流している男の顔を交互に見比べ、快楽をむさぼり続けます。
女王と大臣が満足をする頃になると、男の妻は腰まで水に浸かっていました。
着衣の乱れを整えると女王はふっと一息つき、尻まで伸びた美しい金髪を搔き上げます。
男の猿ぐつわを外すと、女王は優しげに言いました。
「先ほどはわらわの部下が、そなたの妻を犯してしまったであろう? それはそなたが愚か者だからなのじゃが、だからといってそなたの妻を孕ますのはわらわの本意ではない。子ができぬよう、計らってやったぞ」
女王の合図で滑車が動きます。
赤く濁っていた水から、女の下半身が引き上げられました。
それを見た男は一瞬押し黙り、しかしすぐに何もかもを吐き出すかのようなとてつもない絶望の悲鳴を上げます。
女王は「次はそなたの番じゃ」と微笑み、愛用の鎖を手にするのでした。
彼女は人の怪我や病を治すことができたので「愛の女神」などと呼ばれ、持てはやされてきましたが、実際は残酷な女でしたから、国民は安心して暮らすことなどできません。
いっそ別の言語を作り、会話が通じないことを女王に知られないように工夫する者まで現われる始末です。
しかし女王は「痛み」に興味深々。
あまりにも拷問をしたいとき、彼女は町娘に扮して理不尽を探すようにさえなりました。
酒場で議論を交わしている最中、人の話を途中で遮った酒飲み。
息子に解りにくい指示を出しておきながら、間違えたら怒るといったパン屋。
城の中でも女王の目は光ります。
会議の際、気にすべきではないどうでもいいことにこだわった者。
現実に行ったらどうなるかの想像をせず安易に「こっちのほうが早い」などと間違った手段を提示した者。
彼女の鎖は、多くの者に飛びました。
一方、城の者も国民も、女王に対して油断をしなくなってゆきます。
どういったことで彼女が怒るのかを観察し、研究し、逆鱗に触れぬよう努めたのです。
おかげで、拷問死させられる者は一時的に減りました。
そうなると、今度は女王が面白くありません。
以前は自分を怒らせる者をこらしめていましたが、今となっては拷問できないことが腹立たしいことなのです。
女王の矛先はそこで、娯楽の世界に向けられました。
「そなたの舞台、見させてもらったが、あれは一体なんじゃ? なぜあのような下品な言動で民が笑ったのじゃ?」
そのように喰ってかかり、議論を生じさせるのです。
論争になればこっちのもの。
噛み合わない会話が出てくるまで言葉を交わし、そこを指摘し、拷問部屋に連行するだけです。
「わらわが思うに、そなたの作は2通りの解釈ができるように思う。1つは同じ題材の作品に対して明確な反論を呼びかけるという考え。もう1つは――」
「恐れながら女王様、それは誤った見方にございます」
「わらわの話はまだ途中じゃ! 何故もう一方の説を最後まで聞けぬのだ愚か者めが!」
この流れは非常に便利で、合理的に人を責めることができます。
女王はすっかり味を占めてしまいました。
少しでも評判に上ると、どんな娯楽でも進んで観覧するようになります。
音楽、本、舞台、絵、踊り。
彼女は様々なものを味わい、結果的には様々な娯楽をこの世から葬っていきました。
そんな中、ある青年の噂を耳にします。
彼は物語の使い手で、書ではなく噺で人を魅了するとか。
「文字ではなく、物語を喋るのか」
女王は興味を持ちました。
言葉を使う者がどれほど自分との会話を成立させられるか、試してみたくなったのです。
「その者を呼んでまいれ」
再び女王の瞳が残酷に輝き、人を屠るための鎖を手で撫でました。
しかし彼女は結局、その青年を痛めつけることができませんでした。
彼の繰り広げる物語が、とてもとても面白かったからです。
中編に続きます。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/466/
お読みになられる際は充分なご覚悟のほど、よろしくお願い申し上げます。
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「そなたのような人ならぬ者の血が赤いとは不可解な」
女王は言って、笑います。
彼女がけたたましい声を上げながら鎖を振るうと、男は顔面の痛みのために悲鳴を上げ、床を血で汚しました。
男は後ろ手を縛られており、うつ伏せのような体勢で吊るし上げられています。
服の一切は脱がされていますが、女王のせいで全身はくまなく赤く濡らされておりました。
「ははははは! 良い気味じゃ!」
女王は、それはそれは嬉しそうです。
しかし彼女の目は少しも笑ってなどいません。
「そなたのような馬鹿でも、さすがに自分の何がどう悪いかを理解したであろう? 申してみよ。そなたの罪は何じゃ?」
しかし男は呻くばかり。
言語を発しようとはしません。
女王はしゃがみ込むと、男の髪を掴んで顔を自分に向けさせます。
「痛みの余り、口が効けぬか。では少しばかり治してやろう」
血に塗れながらも美しい手。
それを男にかざすと、みるみるうちに傷口が塞がってゆきます。
「どうじゃ? 話せる程度には痛みが和らいだであろう? さあ言え。そなたの罪は何じゃ?」
男はそれで、恐る恐る口を開くことになります。
「私の言葉が足りず、女王様に誤解をさせてしまうようなことを申し上げてしまいました」
「違うわ愚か者めが!」
怒声と同時に鎖が飛びます。
男の眼球に、それは強く当たりました。
男は身動きを封じられているせいで、もがくこともできません。
ただただ悲痛の声を上げ続けるばかりです。
そんな男に、女王は何度も何度も鎖を振るいました。
「そもそもは! おぬしが! わらわの言を勝手に曲解し! 先走って! わらわに無駄な忠告をよこしおったのだ! 愚か者! 無礼者! そなた! 聞く耳がないのか!? わらわが! 祭り事を中止にするなどと! いつ申した!? 言え! いつ申した!? それを! おぬしは! わらわに! 祭り事を続行すべきと! 馬鹿者が! そういったとは! 祭り事の中止を! 提案した者に! 申せ! 愚か者! 愚か者! 愚か者!」
女王が最も嫌うこと。
それは言葉が通じぬことでした。
説明の足りぬ者には「人に伝わらぬ言葉など言葉ではない」と責め、理解が及ばぬ者には「正確な言葉を正確に聞けぬ者は人ではない」と責めました。
今から記す物語は、遠い遠い昔の、ある国の御話です。
現代の巷では太古の男女が抱き合ったまま発見されたとか。
その数は3組に及ぶと耳にしております。
ですが、世にある抱き合った男女の遺骨は果たしてその3組だけなのでしょうか?
いえ、そうではありません。
永遠に見つからぬ4組目があるのです。
片方は男。
片方は女。
女は、誰よりも人に苦しみを与えた、この女王です。
彼女は常に拷問を行っておりました。
あまりに酷い拷問に耐えられず、自分の非を認めることで逃れようとする者は少なくありません。
しかし女王は不敵に笑みます。
「そうかそうか。ようやく解ったか。おぬしがどれだけうつけ者なのか、ようやく解ったか。人はな、頭が良いから人なのじゃ。言葉の通じぬそなたはしたがって、人とは程遠い。人間以下じゃ。そのような馬鹿は、わらわの国には要らん」
そう言って、今度は死に至るまで、何日間も苦しめ続けるのでした。
どんなに酷く痛めつけられても、女王に逆らい続ける民も稀にいます。
そのような数少ない人種にも、彼女は高らかに笑いました。
「ほう。ここまでわらわが尽くしても、まだ解らぬと申すか。おぬしほどの阿呆は珍しい。褒美に、先ほど潰したおぬしの目、見えるよう戻してやろう」
男の両目にしばらく手をかざしてから、女王は部下に合図をします。
すると、男の前には巨大な水槽が運ばれてきました。
中にはおびただしい数の小魚が泳いでいて、まるで風に散る花びらのようです。
「見えるか? 西より取り寄せた人喰いの魚じゃ」
水槽に肉を放り込むと、魚たちが一斉にむらがって喰らい、あっという間に骨だけが水底に沈みます。
「この魚、血の匂いを好む好む」
女王の目が、残酷な光を帯びました。
「おぬし、妻があったな? 連れてきてある」
「おやめください!」
何かしらの悪い予感を察して声を荒げる男の顔を、女王は冷たく一瞥します。
「うるさい」
言うが同時に部下の1人が手慣れた手つきで男に猿ぐつわを噛ませました。
石だけで作られた地下の拷問部屋に、男の妻が通されました。
彼女は男と同様に後ろ手を縛られ、一糸纏わぬ姿です。
「なかなか美しい女ではないか」
女王はそして、部屋中を見渡します。
「誰か! こやつを犯したい者はおるか! 何人でも構わんぞ」
おお、と声がして、兵士の数名が手を挙げます。
満足したかのように女王は深く頷き、他人の妻を部下たちに与えました。
男は「んー!」と何度も喉を鳴らし、激しく首を横に振り続けます。
その表情は、女王が最も見たかった光景でした。
女王は片手を自らの乳房に、もう片方の手を下腹部に忍ばせます。
自身を愛撫しながら、恍惚とした顔で命じました。
「大臣を呼んでまいれ」
やがて兵士たちが果て、男とその妻ががっくりとうなだれる頃、女王は舌舐めずりをします。
「おぬしの妻、おぬしが馬鹿なせいでずいぶんと汚されてしまったのう。言葉が通ずる程度の最低限の英知がおぬしにあればよかったのにのう」
言われた男は顔を上げ、涙をいっぱいに溜めた目で女王を睨みます。
「ははははは! まだ怒れるとは気の強い男じゃ! だが安心せい。おぬしの女、たっぷりと清めてくれようぞ」
女王の合図で女は吊り上げられます。
彼女の股から兵士たちの体液がボタボタとしたたりました。
女王は小さな刃を持ち、女の足に当て、すっと引きます。
白い素肌に、1本の赤い線が引かれました。
女は「痛い」と声を出し、男は再び激しく喉を鳴らせ、許しを乞うような表情を浮かべます。
女王はそれを、当然のように無視しました。
「そなた、わらわの言いたいことが理解できぬのであろ? ならばわらわも解らんな。そなたが何を望んでいるのか、わらわには見当もつかぬ」
そして女王は小さな刃を走らせます。
薄く小さく、女の足の指を、足首を、膝下を、太ももを。
女の足元では、白い物と赤い物とが混ざりました。
「この魚、血の匂いを好む好む」
先と同じことを言う女王の目の先には例の巨大な水槽があります。
男がそれに気づき、今までにない大声を喉の奥で鳴らしました。
妻は泣き叫び、全身全霊を持って抵抗しています。
女王はその悲痛な妻の声を男に聞かせるために、わざと彼女に猿ぐつわを使わなかったのでした。
妻の下半身は赤く染められ、もはや肌の色をした部分がありません。
暴れれば暴れるほど滴が散って、女王の服に紅色の染みを作ってゆきます。
自分の口元に跳ねてきた女の血を、女王はうっとりと舐め回しました。
「やれ」
ジャラジャラと鎖の音がして、女が吊り上げられ、水槽の上まで運ばれます。
地下室は、嫌がる女の声と、男の大きな唸り声でいっぱいになりました。
女は少しずつ、少しずつ降ろされてゆきます。
しばらくは足を上げて逆らっていましたが、やがて足の一部が水面に達してしまいました。
魚たちがバシャバシャと、まるで喜ぶ子供のように激しく飛び跳ねます。
女を中心に赤い物が広がって、水槽の中がどうなっているのか見えなくなりました。
女の悲鳴がさらに高く、大きく響きました。
男の唸りが、さらに激しく、大きくなりました。
女王の高笑いが止まりません。
女はさらにゆっくりと、少しずつ、少しずつ降ろされてゆきます。
その都度、魚たちが飛び跳ねました。
女王は先ほど呼んだ大臣を自分の背後に立たせます。
大臣は既に下半身を露わにしており、男の中心を突き立てると、そのまま女王の中で踊らせました。
貫かれながら女王は喜び、白目を剥いている気を失っている女と、血の涙を流している男の顔を交互に見比べ、快楽をむさぼり続けます。
女王と大臣が満足をする頃になると、男の妻は腰まで水に浸かっていました。
着衣の乱れを整えると女王はふっと一息つき、尻まで伸びた美しい金髪を搔き上げます。
男の猿ぐつわを外すと、女王は優しげに言いました。
「先ほどはわらわの部下が、そなたの妻を犯してしまったであろう? それはそなたが愚か者だからなのじゃが、だからといってそなたの妻を孕ますのはわらわの本意ではない。子ができぬよう、計らってやったぞ」
女王の合図で滑車が動きます。
赤く濁っていた水から、女の下半身が引き上げられました。
それを見た男は一瞬押し黙り、しかしすぐに何もかもを吐き出すかのようなとてつもない絶望の悲鳴を上げます。
女王は「次はそなたの番じゃ」と微笑み、愛用の鎖を手にするのでした。
彼女は人の怪我や病を治すことができたので「愛の女神」などと呼ばれ、持てはやされてきましたが、実際は残酷な女でしたから、国民は安心して暮らすことなどできません。
いっそ別の言語を作り、会話が通じないことを女王に知られないように工夫する者まで現われる始末です。
しかし女王は「痛み」に興味深々。
あまりにも拷問をしたいとき、彼女は町娘に扮して理不尽を探すようにさえなりました。
酒場で議論を交わしている最中、人の話を途中で遮った酒飲み。
息子に解りにくい指示を出しておきながら、間違えたら怒るといったパン屋。
城の中でも女王の目は光ります。
会議の際、気にすべきではないどうでもいいことにこだわった者。
現実に行ったらどうなるかの想像をせず安易に「こっちのほうが早い」などと間違った手段を提示した者。
彼女の鎖は、多くの者に飛びました。
一方、城の者も国民も、女王に対して油断をしなくなってゆきます。
どういったことで彼女が怒るのかを観察し、研究し、逆鱗に触れぬよう努めたのです。
おかげで、拷問死させられる者は一時的に減りました。
そうなると、今度は女王が面白くありません。
以前は自分を怒らせる者をこらしめていましたが、今となっては拷問できないことが腹立たしいことなのです。
女王の矛先はそこで、娯楽の世界に向けられました。
「そなたの舞台、見させてもらったが、あれは一体なんじゃ? なぜあのような下品な言動で民が笑ったのじゃ?」
そのように喰ってかかり、議論を生じさせるのです。
論争になればこっちのもの。
噛み合わない会話が出てくるまで言葉を交わし、そこを指摘し、拷問部屋に連行するだけです。
「わらわが思うに、そなたの作は2通りの解釈ができるように思う。1つは同じ題材の作品に対して明確な反論を呼びかけるという考え。もう1つは――」
「恐れながら女王様、それは誤った見方にございます」
「わらわの話はまだ途中じゃ! 何故もう一方の説を最後まで聞けぬのだ愚か者めが!」
この流れは非常に便利で、合理的に人を責めることができます。
女王はすっかり味を占めてしまいました。
少しでも評判に上ると、どんな娯楽でも進んで観覧するようになります。
音楽、本、舞台、絵、踊り。
彼女は様々なものを味わい、結果的には様々な娯楽をこの世から葬っていきました。
そんな中、ある青年の噂を耳にします。
彼は物語の使い手で、書ではなく噺で人を魅了するとか。
「文字ではなく、物語を喋るのか」
女王は興味を持ちました。
言葉を使う者がどれほど自分との会話を成立させられるか、試してみたくなったのです。
「その者を呼んでまいれ」
再び女王の瞳が残酷に輝き、人を屠るための鎖を手で撫でました。
しかし彼女は結局、その青年を痛めつけることができませんでした。
彼の繰り広げる物語が、とてもとても面白かったからです。
中編に続きます。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/466/
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2012
January 19
January 19
動画投稿サイトに動画をアップするようになってからというもの、多くの方々が俺の絵を描いて送ってくれるようになった。
そういった作品は俺だけで楽しむのは勿体ないので、動画内でちょくちょく使わせてもらっている。
実に恵まれているし、ありがたいことだ。
さて。
これを読んでいる方の中にも、俺にイラストを贈ってくれた人がいるのかと思う。
そんな絵師さんに一言いいだろうか?
お前が描いてくれた絵が会社のロゴになっちゃうかも知れねえぞマジで!
電話をくれたのは、悪魔王子の兄貴だ。
「もしもし、めさ? 今平気だった?」
「あ、はい。大丈夫ですよー」
「いやね? 俺の仲間がさ、今度会社を立ち上げることになったんだよ」
「ほうほう」
「でね? 社名をどうしようかって話になったわけさ」
「ええ」
「そんで色々話し合ったんだけど、『株式会社めさ』にしようかと思って」
このとき、俺が受けた衝撃が解るだろうか?
ペットに命名するのではない。
れっきとした企業名が、めさだ。
どっかで「俺様は悪魔だー」とか中2っぽいこと言って調子こいてる男のハンドルネームが、そのまま株式な会社の名前になっちゃうのである。
兄貴の発想が斜め上すぎて、笑ってしまって息ができない。
なんでピンポイントで俺なのだ。
このとき俺は職場にいて、丁度この時ボスが出勤してきた。
彼女が店に入った途端、俺が死ぬほど大笑いしているので、ボスはもの凄い形相でびっくりしていた。
兄貴が続ける。
「業務内容はね? 建築系の内装業なんだけど」
「ぎゃはははは! 俺めっちゃ関係ない…! あははははは!」
本当に笑いが止まらない。
株式会社めさに電話をかけると、俺じゃない人が「お電話ありがとうございます。めさです」って言うわけだ。
例えば将来その会社が大きく発展して、一流企業になろうものなら、テレビとかで「内装はめさに!」とか流れ、ましてやニュースの特集とかで「今回はめさの歴史を紐解きましょう」なんて展開になったら、俺はどうしたらいいのだろう。
あ、どうもしなくていいのか。
それにしても、以前、実際に「メサの儀式ではまず、メサを燃やします」などとテレビで見たとき以上のインパクトである。
良い意味で株式会社めさが取り上げられるのなら、まだいい。
脱税とか変な取り引きとか、そういった悪いことで摘発されたらたまらない。
株式会社めさの元社員が顔を隠し、音声を変えてインタビューに答えるわけだ。
「めさは最悪ですよ。ボロ設けするだけして、そのお金であんな酷いことを…。本当にめさは最低です」
俺なんも悪いことしてないのに。
それでもってニュースキャスターまでもが、
「いやあ、本当に酷いですね、めさは」
「ええ。悪行もここまでいくと、人としてどうかと思いますね。まさしく悪魔の所業です」
普段、動画や生放送のタイトルに「悪魔ぶって」などと銘打っているが、これではマジデビルだ。
電話の向こうで、兄貴は言った。
「いいかなあ? めさって名前の会社にしちゃっても」
「果てしなくオイシイのでオッケーです!」
「ホント? ありがとね」
「いえいえ!」
「そんでね? 会社のロゴっていうの? マークが必要なわけさ。めさ、なんかそういうの持ってない?」
「あ、それでしたら、何人かが俺の絵を描いてくれてて、中にはマークっぽい作品もあるんですよ」
「おお!」
「ロゴとしても使えそうなやつ、メールで送りますね」
「それ助かるわ。ありがとう」
と、いうわけで、動画視聴者さんの作品は俺の動画で紹介されるどころか、株式会社めさの看板になることに。
採用される絵の作者さん、お知らせしたらびっくりするだろうなあ。
そういった作品は俺だけで楽しむのは勿体ないので、動画内でちょくちょく使わせてもらっている。
実に恵まれているし、ありがたいことだ。
さて。
これを読んでいる方の中にも、俺にイラストを贈ってくれた人がいるのかと思う。
そんな絵師さんに一言いいだろうか?
お前が描いてくれた絵が会社のロゴになっちゃうかも知れねえぞマジで!
電話をくれたのは、悪魔王子の兄貴だ。
「もしもし、めさ? 今平気だった?」
「あ、はい。大丈夫ですよー」
「いやね? 俺の仲間がさ、今度会社を立ち上げることになったんだよ」
「ほうほう」
「でね? 社名をどうしようかって話になったわけさ」
「ええ」
「そんで色々話し合ったんだけど、『株式会社めさ』にしようかと思って」
このとき、俺が受けた衝撃が解るだろうか?
ペットに命名するのではない。
れっきとした企業名が、めさだ。
どっかで「俺様は悪魔だー」とか中2っぽいこと言って調子こいてる男のハンドルネームが、そのまま株式な会社の名前になっちゃうのである。
兄貴の発想が斜め上すぎて、笑ってしまって息ができない。
なんでピンポイントで俺なのだ。
このとき俺は職場にいて、丁度この時ボスが出勤してきた。
彼女が店に入った途端、俺が死ぬほど大笑いしているので、ボスはもの凄い形相でびっくりしていた。
兄貴が続ける。
「業務内容はね? 建築系の内装業なんだけど」
「ぎゃはははは! 俺めっちゃ関係ない…! あははははは!」
本当に笑いが止まらない。
株式会社めさに電話をかけると、俺じゃない人が「お電話ありがとうございます。めさです」って言うわけだ。
例えば将来その会社が大きく発展して、一流企業になろうものなら、テレビとかで「内装はめさに!」とか流れ、ましてやニュースの特集とかで「今回はめさの歴史を紐解きましょう」なんて展開になったら、俺はどうしたらいいのだろう。
あ、どうもしなくていいのか。
それにしても、以前、実際に「メサの儀式ではまず、メサを燃やします」などとテレビで見たとき以上のインパクトである。
良い意味で株式会社めさが取り上げられるのなら、まだいい。
脱税とか変な取り引きとか、そういった悪いことで摘発されたらたまらない。
株式会社めさの元社員が顔を隠し、音声を変えてインタビューに答えるわけだ。
「めさは最悪ですよ。ボロ設けするだけして、そのお金であんな酷いことを…。本当にめさは最低です」
俺なんも悪いことしてないのに。
それでもってニュースキャスターまでもが、
「いやあ、本当に酷いですね、めさは」
「ええ。悪行もここまでいくと、人としてどうかと思いますね。まさしく悪魔の所業です」
普段、動画や生放送のタイトルに「悪魔ぶって」などと銘打っているが、これではマジデビルだ。
電話の向こうで、兄貴は言った。
「いいかなあ? めさって名前の会社にしちゃっても」
「果てしなくオイシイのでオッケーです!」
「ホント? ありがとね」
「いえいえ!」
「そんでね? 会社のロゴっていうの? マークが必要なわけさ。めさ、なんかそういうの持ってない?」
「あ、それでしたら、何人かが俺の絵を描いてくれてて、中にはマークっぽい作品もあるんですよ」
「おお!」
「ロゴとしても使えそうなやつ、メールで送りますね」
「それ助かるわ。ありがとう」
と、いうわけで、動画視聴者さんの作品は俺の動画で紹介されるどころか、株式会社めさの看板になることに。
採用される絵の作者さん、お知らせしたらびっくりするだろうなあ。
2012
January 17
January 17
「このメンバーの中でエッチするとしたら誰?」
「なんて答えにくいことを…」
酒席では罰ゲームの嵐だ。
お店が暇だったので、数少ないお客さんと従業員たちとでちょっとしたアプリを楽しんでいる。
あたしがアイフォンにダウンロードしたゲームだ。
クリックすると、様々な質問がランダムに出題される仕組みになっている。
例えば「異性が身につける下着は何が理想?」とか「名前も知らない人と関係を持ったことがあるなら、その詳細を詳しく話せ」などなど、性的な内容が多い。
みんなもういい大人なので、多少エグい質問が出ても、だいたいがあっさりと「それは経験なし。次!」とか「昔あったなあ、そんなことも」などと平然と答えてゆく。
しかし、めさくんは違った。
「え~! そんなの言えない!」
潔くないし、なんだか気持が悪い。
いいから言え。
「えっとね? えっとね? そういった経験はね? もー無理!」
無理なのはそのキャラだ。
なんだその年齢設定と性別を間違えた感じは。
「だって、言いたくないんだもん!」
もん!
じゃない。
腹立たしい。
うざいからもう引っ張るな。
回答を強要すると彼は、以前女性に何かしらをされてしまった過去を赤面しながら話し、「なんだよ結局受け身かよ気持悪いな」とあたしの気分を害させた。
そんな中、店のボスであるK美ちゃんが思い出したかのように立ち上がる。
「こないだの、めーちゃんの誕生日会のときのケーキがあるんだった。みんな食べる? めさのチョコレートケーキ」
今までの話題が話題なだけに「めさのチョコレートケーキ」という言い回しがなんだかエロチックな比喩に思え、あたしは笑った。
皆はそれで、わざといやらしい意味に取れるような言い方をする。
「めさのチョコレートケーキ、甘~い」
「めさの、美味しい」
「どうだ! 俺の味は!」
この男、いきなり調子に乗り始めた?
めさくんの言えることと言えないことの区別が、あたしにはさっぱり解らない。
やがてアプリの質問事項も尽き、ゲームはやがてカラオケに移行する。
皆でマイクを回しながら歌い、画面が切り替わって歌詞が変わる毎に交代してゆく。
最後のフレーズを歌った者が負けだ。
めさくんが負け、彼が次の歌を入れる役となった。
「次、なんの歌にしようかなあ。あ、そうだ。みんな、コブクロ歌える?」
「有名なやつしか知らないなあ」
「蕾(つぼみ)とかって、どう?」
「それなら知ってるー」
「おっけい!」
めさくんが電目を操作した。
「じゃあみんなで歌おう。俺のコブクロを」
お前のじゃない。
なんでわざわざ「俺の」を付けた。
そっちのコブクロに興味はない。
「入れるよ? 俺の蕾」
何がどう卑猥なのか説明しないが、とにかくいい加減にしろ。
コブクロファンの方々、めさのバカが大変失礼いたしました。
「なんて答えにくいことを…」
酒席では罰ゲームの嵐だ。
お店が暇だったので、数少ないお客さんと従業員たちとでちょっとしたアプリを楽しんでいる。
あたしがアイフォンにダウンロードしたゲームだ。
クリックすると、様々な質問がランダムに出題される仕組みになっている。
例えば「異性が身につける下着は何が理想?」とか「名前も知らない人と関係を持ったことがあるなら、その詳細を詳しく話せ」などなど、性的な内容が多い。
みんなもういい大人なので、多少エグい質問が出ても、だいたいがあっさりと「それは経験なし。次!」とか「昔あったなあ、そんなことも」などと平然と答えてゆく。
しかし、めさくんは違った。
「え~! そんなの言えない!」
潔くないし、なんだか気持が悪い。
いいから言え。
「えっとね? えっとね? そういった経験はね? もー無理!」
無理なのはそのキャラだ。
なんだその年齢設定と性別を間違えた感じは。
「だって、言いたくないんだもん!」
もん!
じゃない。
腹立たしい。
うざいからもう引っ張るな。
回答を強要すると彼は、以前女性に何かしらをされてしまった過去を赤面しながら話し、「なんだよ結局受け身かよ気持悪いな」とあたしの気分を害させた。
そんな中、店のボスであるK美ちゃんが思い出したかのように立ち上がる。
「こないだの、めーちゃんの誕生日会のときのケーキがあるんだった。みんな食べる? めさのチョコレートケーキ」
今までの話題が話題なだけに「めさのチョコレートケーキ」という言い回しがなんだかエロチックな比喩に思え、あたしは笑った。
皆はそれで、わざといやらしい意味に取れるような言い方をする。
「めさのチョコレートケーキ、甘~い」
「めさの、美味しい」
「どうだ! 俺の味は!」
この男、いきなり調子に乗り始めた?
めさくんの言えることと言えないことの区別が、あたしにはさっぱり解らない。
やがてアプリの質問事項も尽き、ゲームはやがてカラオケに移行する。
皆でマイクを回しながら歌い、画面が切り替わって歌詞が変わる毎に交代してゆく。
最後のフレーズを歌った者が負けだ。
めさくんが負け、彼が次の歌を入れる役となった。
「次、なんの歌にしようかなあ。あ、そうだ。みんな、コブクロ歌える?」
「有名なやつしか知らないなあ」
「蕾(つぼみ)とかって、どう?」
「それなら知ってるー」
「おっけい!」
めさくんが電目を操作した。
「じゃあみんなで歌おう。俺のコブクロを」
お前のじゃない。
なんでわざわざ「俺の」を付けた。
そっちのコブクロに興味はない。
「入れるよ? 俺の蕾」
何がどう卑猥なのか説明しないが、とにかくいい加減にしろ。
コブクロファンの方々、めさのバカが大変失礼いたしました。
2012
January 06
January 06
第1話・再会
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
第2話・募る想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
第3話・すれ違う想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/459/
------------------------------
まだ小さな子供だったあの頃は、本当に、本当に幸せだった。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
「なんか男らしくないー」
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
結婚できる歳になったら一緒に住もうなんて約束も、2人でしたっけ。
「あたしが16歳になったら結婚しよー!」
「ダメだよ、さっちゃん。男は確か、18歳にならないと、結婚できないんだよ」
「じゃあ、なおくんが18歳になったらね!」
「うん!」
「いつなるの?」
「えっとね、えっとね、今3歳だから、ずっと先の3月!」
「どんぐらい先?」
「わかんない。18歳になったら!」
それであたしたちは、大きな桜の木の根元に手作りの指輪を埋めた。
「ベス…」
あたしはベットに腰掛けたまま、古びたクマのぬいぐるみを顔の高さまで持ち上げる。
「あたしたち、もう、一緒に居られないのかなあ…」
冬休みが終わって、新学期。
もうすぐ卒業式だ。
あたしはずっと沈んだ気分のままで、学校で無理して明るく振舞うのが辛かった。
頭の中には近藤くんの、あの言葉が今でもリピートしている。
「僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
友達、かあ。
そうだよね。
通じ合っていたのは子供の頃だけ。
今はあたしの片想いなんだ。
「はあ」
あれから何ヶ月か経っているというのに、あたしの溜め息はとても深い。
ふと、電話の音に気づき、あたしは重い腰を上げる。
受話器を取った。
「はい、畑中です」
「あの、あの…! 畑中早苗さん、いますか!?」
女の子の声だ。
誰だろう?
「はい、早苗はあたしですけど」
「あの、あの…! 初めまして! あたし、近藤直人の妹なんですけど」
「…え!?」
「突然すみません! お兄ちゃんのことでお話したくって、あの、今からどっかで逢えませんか!?」
あたしはその勢いに押され、「はあ」と曖昧な返事をする。
公園で待っていた中学生の女の子は、あたしに勢いよくペコリと頭を下げた。
妹というだけあって、どこか近藤くんと似た面影がある。
「突然呼び出しちゃって、すみません!」
「あ、いえ」
ブランコの正面にあるベンチに、あたしたちは腰を下ろした。
「お兄ちゃん、ここ最近ずっと元気がないんです」
妹さんは、そう切り出した。
真ん丸な目をあたしに向けている。
「さっちゃんさん、なにか知りませんか?」
「あたしは別に…」
ふと、近藤くんが綺麗な女の人にキスされている場面が脳裏に蘇り、あたしはそれで口を閉ざした。
わずかに風が吹いて、彼女のツインテールが小さく揺れる。
「やっぱり、何かあったんですね」
「…え?」
「ケンカ、しちゃんたんですか? お兄ちゃんと」
「…近藤くんは、なんて?」
「お兄ちゃんからは何も聞いてないです。でも、さっちゃんさんの話をしなくなっちゃって、毎日暗い顔ばっかしてて…」
妹さんは立ち上がり、真剣な眼差しをあたしに向けた。
「お兄ちゃんと、仲直りしてくれませんか!?」
そのままガバっと腰を90度に折り曲げる。
「お願いします!」
「ちょ、そんな、やめてよ!」
彼女に手を添え、身を起こさせる。
「近藤くんはあたしのことなんとも思ってないんだし、仲直りなんてしたって…!」
「え!? もしかして、さっちゃんさん、気づいてないんですか?」
「え…? 気づいてないって…、なにを…?」
「お兄ちゃん、さっちゃんさんに恋してます」
「そ、そんな…! そんなことないよ! だって近藤くんには恋人が…!」
「恋人…? それ、なんの話ですか?」
あたしはそれで、あの日に見てしまったことを話す。
ノートを届けに家まで行ったら、近藤くんとお姉さんがキスしていた、思い出したくない目撃談。
その後、近藤くんから「好きな人がいる」と告げられてしまったことも、気づいたら口にしていた。
「あ~」
妹さんは何かを察したかのように、自分の顎先に指を当てる。
「さっちゃんさん、それ、誤解ですよ」
「誤解?」
「ええ。お兄ちゃんに彼女なんていません」
「でも、家の前で…」
「それ、本当にキスだったんですか?」
「いや、そこまでは…」
「そのこと、お兄ちゃんにちゃんと訊いたほうがいいです。お兄ちゃんの好きな人が誰なのかも、ちゃんと聞いてあげてください」
彼女は最後に、「だらしなくて頼りないお兄ちゃんだけど、これからもよろしくお願いします!」と頭を下げた。
------------------------------
放課後、僕は帰る支度もせず机に突っ伏し、窓の外を眺めるともなく見つめる。
曇っていた空がじきに雨を降らせ、僕にあの日のことを思い出させた。
「いやあ、参ったなあ。もう逢えなくなるみたいな言い方しないでよ。これからもさ、なんかあったらまたみんなで遊ぼう? 僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
「そ、そうだよね! あたしたち、友達、だもんね! これからもまた、あ、遊ぼうね! …さよなら」
もはや溜め息をつくエネルギーさえもない。
雨音は強まり、やがて土砂降りになった。
まるで僕の心の中みたいだ。
「近藤」
声のほうに振り返る。
そこには神妙な面持ちをした春樹が立っていた。
「どうしたんだよお前。ここ最近ずっと変だぞ」
「そ、そんなこと、ないよ」
「1人で抱え込んでんじゃねえよ」
「べ、別に悩んでなんかいないさ」
「どうせ、さっちゃんとなんかあったんだろ? 仲直りできねえのかよ?」
「う、うるさいな。放っといてくれよ」
僕は鞄を掴むと教室を出る。
「おい近藤! 待てよ!」
春樹は靴を履き替えて昇降口を出たあとも追ってきた。
土砂降りの雨の中、2つの傘が足早に進む。
春樹が僕の肩を掴んだ。
「1人で悩んでねえで、たまには相談しろって!」
「うるさいな! 放っといてくれって言ってるだろ!」
「やっぱりさっちゃんのことか? ケンカでもしたのかよ?」
「頼むから、そっとしておいてくれ!」
怒鳴ると、春樹は「ふざけんな!」と声を荒らげる。
「こっちはな! いい加減、お前の暗い顔見るのはうんざりなんだよ!」
「だったら見なきゃいいだろう!?」
「なんだと!?」
「なんだよ!」
傘を放り投げ、僕らは大雨の中で胸ぐらを掴み合う。
------------------------------
「せっかく来てくれたのに、ごめんなさい、さっちゃんさん」
意を決して近藤くんの家を訪ねると、出迎えてくれたのは妹さんだった。
「お兄ちゃん、今は誰とも逢いたくないって言ってて…」
「そう…」
「あ、気を悪くしないでください。さっちゃんさんだから逢いたくないんじゃなくて、お兄ちゃん、お友達とケンカしちゃったみたいで、それで凹んでるだけなんです」
妹さんは必死になって弁明してくれていたけれど、その言葉は耳には入ってこなくて、あたしはただ「ごめんなさい」と残す。
雨の中、とぼとぼと家路についた。
夜中、あたしは自室で机の上にある電気スタンドに明かりを灯す。
臆病なあたしの、ささやかな自己表現。
いつも以上に細かな字をハガキにしたためていった。
こうでもしないと、悲しみに押しつぶされてしまいそうだからだ。
幼い日に、大好きな人と将来を誓い合ったこと。
そんな運命の人と、気づかぬうちに再会していたこと。
再び恋に落ちて、でも上手くいかなくて。
書いていくうちに涙がぽたぽたと落ちて、水性ペンの文字をにじませた。
今まで何度かラジオに投稿していたけれど、これでもうおしまいにしよう。
このハガキが、最後の公開日記だ。
------------------------------
青春いっぱいのはずの高校生活がいよいよ明日で終わろうとしている。
片想いは幕を閉ざしたし、親友にも嫌われた。
まさかこんな沈んだ気分で、卒業式を迎えることになろうとは。
ぼうっとしていると、いつからか電話が鳴っていることに気づき、僕は死んだ目のまま受話器を持ち上げる。
「…はい、近藤です」
「近藤か!? 俺だ!」
「…春、樹…?」
意外な相手だった。
つい先日ケンカしたばかりの僕に、一体なんの用があるっていうんだ?
「近藤! お前今日、誕生日だよな!?」
「え? ああ、そうだけど」
「ラジオ聴け!」
「え?」
言ってることの意味が解らない。
しかし春樹は「FM桜ヶ丘だ!」とまくし立てる。
「いいから言う通りにしてくれ! 頼むから今すぐラジオ点けろ! 今すぐだ! 電話切るから絶対聴けよ! じゃあな!」
一方的に電話を切られる。
「なんだっていうんだ…」
ぶつぶつ言いながら、僕は机の上にあるラジオのスイッチをいれた。
軽快なBGMと男性DJの弾んだ声が流れる。
「…こうしてあたしは幼い頃に大好きだった彼と再会しました。
いいねー! 不良に絡まれているところに助けに入ってくれた人が運命の人だったなんて、なんてロマンチックなんだい」
思い当たるエピソードだった。
僕は大急ぎでラジオのボリュームを上げる。
「…でも、あたしの勝手な勘違いのせいで、彼の話を聞いてあげられなくて、あの人を傷つけてしまいました。今じゃもう、逢いに行っても逢ってもらえません。どうしても謝りたいのに。
もうすぐ、彼は18歳になります。昔あたしたちが結婚するって約束をした日が、もうすぐそこまで迫っています。あたしはその日、指輪を埋めた場所でずっと彼のことを待とうと思っています。
あたしが幼馴染だってこと、彼は気づいてないのかも知れない。気づいていても、約束のことを覚えていないかも知れない。だから、あの桜の丘にはきっと、誰も来ないんだと思います。それでもあたしには何よりも大切な誓いです。
Nくん、大好きだよ。こんなあたしで、ごめんね。
…ラジオネーム、恋するSちゃん! いやあ、切ないねえ! そんな恋するSちゃんに捧げるナンバーはこちら! 春の日フォーリンラブ!」
なんてこった!
僕の誕生日っていったら今日じゃないか!
時計を見るまでもなくなく、とっくに日が暮れている。
こうしちゃいられない!
僕は着の身着のまま自宅を飛び出す。
そこには意外な人影があった。
「俺からのバースデイプレゼントはここからだぜ近藤!」
「春樹…!」
アパートの前で、春樹が自転車に股がっている。
「乗れ!」
何が起こったのか解らなくて混乱してしまったけれど、僕はもつれた足でせかせかと自転車に乗り込む。
春樹が叫んだ。
「飛ばすぜ! しっかり捕まってろよ!」
2人乗りとはとても思えない勢いで自転車が加速してゆく。
春樹に謝ったらいいのかお礼を言ったらいいのか判断できなくて、結局何も言えない。
自転車が細い道に入る。
どこかで聞いたことがあるような男の声がした。
「あれ? おいテツ。あいつ、いつかの…」
「おう、待て兄ちゃん、コラぁ~!」
春樹が「ちっ! 西高の奴らか」と毒づいた。
以前さっちゃんに絡んでいた2人が、行く手を塞いでいる。
「おうヒーローさんよお、会いたかったぜコラぁ~」
「オメーのおかげでこちとらポリ公に散々絞られたんだ。たっぷりお礼させてもらうぜコラぁ~」
よりによって、こんなときに。
最悪だ。
僕の顔色は相当悪くなったに違いない。
解決策がまるで見えなかったからだ。
しかし、春樹が自転車を降り、ハンドルを僕に持たせる。
「近藤! 俺のチャリ使え!」
「え?」
「あの丘には別の道からも行けるだろ?」
「え、でも春樹、お前が…」
「行け近藤! これ以上、さっちゃん待たせるんじゃねえよ」
不良たちが迫ってくる。
「なにごちゃごちゃ言ってんだコラぁ~」
「西高の風神テツと雷神カズ舐めんじゃねえぞコラぁ~」
そんな彼らの声をかき消すかのように春樹が吠える。
「行け近藤!」
すまない!
と告げて、僕は自転車に股がった。
「あ、待ちやがれコラぁ~!」
「逃がさねえぞコラぁ~!」
「おっと!」
春樹が2人組の前に立ちはだかるのが、背中越しに解った。
「ここから先は通行止めだぜ?」
すまない、春樹。
ありがとう。
心の中で告げながら、ペダルを漕ぐ足に力を込める。
------------------------------
小さなシャベルでそこを掘ると、出てきたのは小さな箱だ。
開けると、出来がいいだなんてお世辞でも言えないようなリングが2つ。
知らない人が見たらゴミにしか見えないだろうなあ。
色付きの針金で作られた婚約指輪だ。
「あはは。ちっちゃい」
3歳児の薬指に合わせたサイズのそれは、付けてみると指の途中で止まった。
あの頃は、一生懸命これを作って、この桜の木の下で結婚するなんて夢を2人で思い描いていたっけ。
この指輪が入らなくなるぐらい大きくなった今は、そんな夢ももう見ちゃいけないのかも知れない。
ぽたりと、指輪に雫が落ちた。
「なおくん、素直になれなくって、ごめんね」
あたしは無理に笑って桜の木を見上げる。
「えへへ。一生、一緒に居たいのは、昔も今も変わらないんだけどなあ。あたし、やっぱりダメだなあ」
「ダメなんかじゃないよ!」
「…え?」
驚いて振り返る。
あたしはそれで、さらに驚くことになった。
近藤くんが息を切らせ、肩を大きく上下させている。
「近藤くん!? どうして!?」
「さっちゃんに、言いたいことがあって」
春を思わせる暖かい風が吹いて、さあっと夜桜が揺れた。
「あたしに、言いたいこと?」
「うん」
近藤くん、いや。
なおくんが息を整えて、あたしの正面に立つ。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
涙が一気にこぼれだすのを、あたしは必死に笑って誤魔化した。
「なんか、男らしくないー」
桜の花びらが踊る。
なおくんが優しげな目で、あたしの髪を撫でた。
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
えへへ、とあたしは涙を拭う。
なおくんの胸に顔を埋めて、あたしは彼の背中に手を回した。
------------------------------
「約束、覚えててくれたんだ」
抱きしめると、さっちゃんはポツリとそう言った。
「もちろん」
包み込むようにして彼女の髪に手を添える。
夜風がまた吹いて、桜の花びらをさらに降らせた。
ふと丘の麓で何かが動いたような気がして目をやると、親友が気取った素振りで肩をすぼめている。
春樹はそのまま踵を返すと、背中越しに手を降って自転車に乗り、帰ってゆく。
「どうしたの? なおくん」
「ううん、なんでもないよ。それより、待たせてごめん」
「えへへ。15年も、だもんね」
僕も少し笑って、さっちゃんから指輪の片方を受け取った。
それはとても小さくて、薬指の先で止まってしまう。
「ちゃんとした指輪、買わなきゃいけないなあ」
「ううん。これで充分だよ」
さっちゃんが僕の首に腕を回した。
「その代わり、守ってね。一生」
彼女が目を閉じて、つま先立ちをする。
桃色の花びらが僕らを包み込んだ。
唇を離すと、僕はようやく胸を無で下ろす。
長かった。
本当に、本当に長かった。
3歳のときに1度。
18歳になって、もう1度。
どうやら2回で、僕のプロポーズは成功したみたいだ。
――了――
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
第2話・募る想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
第3話・すれ違う想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/459/
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まだ小さな子供だったあの頃は、本当に、本当に幸せだった。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
「なんか男らしくないー」
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
結婚できる歳になったら一緒に住もうなんて約束も、2人でしたっけ。
「あたしが16歳になったら結婚しよー!」
「ダメだよ、さっちゃん。男は確か、18歳にならないと、結婚できないんだよ」
「じゃあ、なおくんが18歳になったらね!」
「うん!」
「いつなるの?」
「えっとね、えっとね、今3歳だから、ずっと先の3月!」
「どんぐらい先?」
「わかんない。18歳になったら!」
それであたしたちは、大きな桜の木の根元に手作りの指輪を埋めた。
「ベス…」
あたしはベットに腰掛けたまま、古びたクマのぬいぐるみを顔の高さまで持ち上げる。
「あたしたち、もう、一緒に居られないのかなあ…」
冬休みが終わって、新学期。
もうすぐ卒業式だ。
あたしはずっと沈んだ気分のままで、学校で無理して明るく振舞うのが辛かった。
頭の中には近藤くんの、あの言葉が今でもリピートしている。
「僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
友達、かあ。
そうだよね。
通じ合っていたのは子供の頃だけ。
今はあたしの片想いなんだ。
「はあ」
あれから何ヶ月か経っているというのに、あたしの溜め息はとても深い。
ふと、電話の音に気づき、あたしは重い腰を上げる。
受話器を取った。
「はい、畑中です」
「あの、あの…! 畑中早苗さん、いますか!?」
女の子の声だ。
誰だろう?
「はい、早苗はあたしですけど」
「あの、あの…! 初めまして! あたし、近藤直人の妹なんですけど」
「…え!?」
「突然すみません! お兄ちゃんのことでお話したくって、あの、今からどっかで逢えませんか!?」
あたしはその勢いに押され、「はあ」と曖昧な返事をする。
公園で待っていた中学生の女の子は、あたしに勢いよくペコリと頭を下げた。
妹というだけあって、どこか近藤くんと似た面影がある。
「突然呼び出しちゃって、すみません!」
「あ、いえ」
ブランコの正面にあるベンチに、あたしたちは腰を下ろした。
「お兄ちゃん、ここ最近ずっと元気がないんです」
妹さんは、そう切り出した。
真ん丸な目をあたしに向けている。
「さっちゃんさん、なにか知りませんか?」
「あたしは別に…」
ふと、近藤くんが綺麗な女の人にキスされている場面が脳裏に蘇り、あたしはそれで口を閉ざした。
わずかに風が吹いて、彼女のツインテールが小さく揺れる。
「やっぱり、何かあったんですね」
「…え?」
「ケンカ、しちゃんたんですか? お兄ちゃんと」
「…近藤くんは、なんて?」
「お兄ちゃんからは何も聞いてないです。でも、さっちゃんさんの話をしなくなっちゃって、毎日暗い顔ばっかしてて…」
妹さんは立ち上がり、真剣な眼差しをあたしに向けた。
「お兄ちゃんと、仲直りしてくれませんか!?」
そのままガバっと腰を90度に折り曲げる。
「お願いします!」
「ちょ、そんな、やめてよ!」
彼女に手を添え、身を起こさせる。
「近藤くんはあたしのことなんとも思ってないんだし、仲直りなんてしたって…!」
「え!? もしかして、さっちゃんさん、気づいてないんですか?」
「え…? 気づいてないって…、なにを…?」
「お兄ちゃん、さっちゃんさんに恋してます」
「そ、そんな…! そんなことないよ! だって近藤くんには恋人が…!」
「恋人…? それ、なんの話ですか?」
あたしはそれで、あの日に見てしまったことを話す。
ノートを届けに家まで行ったら、近藤くんとお姉さんがキスしていた、思い出したくない目撃談。
その後、近藤くんから「好きな人がいる」と告げられてしまったことも、気づいたら口にしていた。
「あ~」
妹さんは何かを察したかのように、自分の顎先に指を当てる。
「さっちゃんさん、それ、誤解ですよ」
「誤解?」
「ええ。お兄ちゃんに彼女なんていません」
「でも、家の前で…」
「それ、本当にキスだったんですか?」
「いや、そこまでは…」
「そのこと、お兄ちゃんにちゃんと訊いたほうがいいです。お兄ちゃんの好きな人が誰なのかも、ちゃんと聞いてあげてください」
彼女は最後に、「だらしなくて頼りないお兄ちゃんだけど、これからもよろしくお願いします!」と頭を下げた。
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放課後、僕は帰る支度もせず机に突っ伏し、窓の外を眺めるともなく見つめる。
曇っていた空がじきに雨を降らせ、僕にあの日のことを思い出させた。
「いやあ、参ったなあ。もう逢えなくなるみたいな言い方しないでよ。これからもさ、なんかあったらまたみんなで遊ぼう? 僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
「そ、そうだよね! あたしたち、友達、だもんね! これからもまた、あ、遊ぼうね! …さよなら」
もはや溜め息をつくエネルギーさえもない。
雨音は強まり、やがて土砂降りになった。
まるで僕の心の中みたいだ。
「近藤」
声のほうに振り返る。
そこには神妙な面持ちをした春樹が立っていた。
「どうしたんだよお前。ここ最近ずっと変だぞ」
「そ、そんなこと、ないよ」
「1人で抱え込んでんじゃねえよ」
「べ、別に悩んでなんかいないさ」
「どうせ、さっちゃんとなんかあったんだろ? 仲直りできねえのかよ?」
「う、うるさいな。放っといてくれよ」
僕は鞄を掴むと教室を出る。
「おい近藤! 待てよ!」
春樹は靴を履き替えて昇降口を出たあとも追ってきた。
土砂降りの雨の中、2つの傘が足早に進む。
春樹が僕の肩を掴んだ。
「1人で悩んでねえで、たまには相談しろって!」
「うるさいな! 放っといてくれって言ってるだろ!」
「やっぱりさっちゃんのことか? ケンカでもしたのかよ?」
「頼むから、そっとしておいてくれ!」
怒鳴ると、春樹は「ふざけんな!」と声を荒らげる。
「こっちはな! いい加減、お前の暗い顔見るのはうんざりなんだよ!」
「だったら見なきゃいいだろう!?」
「なんだと!?」
「なんだよ!」
傘を放り投げ、僕らは大雨の中で胸ぐらを掴み合う。
------------------------------
「せっかく来てくれたのに、ごめんなさい、さっちゃんさん」
意を決して近藤くんの家を訪ねると、出迎えてくれたのは妹さんだった。
「お兄ちゃん、今は誰とも逢いたくないって言ってて…」
「そう…」
「あ、気を悪くしないでください。さっちゃんさんだから逢いたくないんじゃなくて、お兄ちゃん、お友達とケンカしちゃったみたいで、それで凹んでるだけなんです」
妹さんは必死になって弁明してくれていたけれど、その言葉は耳には入ってこなくて、あたしはただ「ごめんなさい」と残す。
雨の中、とぼとぼと家路についた。
夜中、あたしは自室で机の上にある電気スタンドに明かりを灯す。
臆病なあたしの、ささやかな自己表現。
いつも以上に細かな字をハガキにしたためていった。
こうでもしないと、悲しみに押しつぶされてしまいそうだからだ。
幼い日に、大好きな人と将来を誓い合ったこと。
そんな運命の人と、気づかぬうちに再会していたこと。
再び恋に落ちて、でも上手くいかなくて。
書いていくうちに涙がぽたぽたと落ちて、水性ペンの文字をにじませた。
今まで何度かラジオに投稿していたけれど、これでもうおしまいにしよう。
このハガキが、最後の公開日記だ。
------------------------------
青春いっぱいのはずの高校生活がいよいよ明日で終わろうとしている。
片想いは幕を閉ざしたし、親友にも嫌われた。
まさかこんな沈んだ気分で、卒業式を迎えることになろうとは。
ぼうっとしていると、いつからか電話が鳴っていることに気づき、僕は死んだ目のまま受話器を持ち上げる。
「…はい、近藤です」
「近藤か!? 俺だ!」
「…春、樹…?」
意外な相手だった。
つい先日ケンカしたばかりの僕に、一体なんの用があるっていうんだ?
「近藤! お前今日、誕生日だよな!?」
「え? ああ、そうだけど」
「ラジオ聴け!」
「え?」
言ってることの意味が解らない。
しかし春樹は「FM桜ヶ丘だ!」とまくし立てる。
「いいから言う通りにしてくれ! 頼むから今すぐラジオ点けろ! 今すぐだ! 電話切るから絶対聴けよ! じゃあな!」
一方的に電話を切られる。
「なんだっていうんだ…」
ぶつぶつ言いながら、僕は机の上にあるラジオのスイッチをいれた。
軽快なBGMと男性DJの弾んだ声が流れる。
「…こうしてあたしは幼い頃に大好きだった彼と再会しました。
いいねー! 不良に絡まれているところに助けに入ってくれた人が運命の人だったなんて、なんてロマンチックなんだい」
思い当たるエピソードだった。
僕は大急ぎでラジオのボリュームを上げる。
「…でも、あたしの勝手な勘違いのせいで、彼の話を聞いてあげられなくて、あの人を傷つけてしまいました。今じゃもう、逢いに行っても逢ってもらえません。どうしても謝りたいのに。
もうすぐ、彼は18歳になります。昔あたしたちが結婚するって約束をした日が、もうすぐそこまで迫っています。あたしはその日、指輪を埋めた場所でずっと彼のことを待とうと思っています。
あたしが幼馴染だってこと、彼は気づいてないのかも知れない。気づいていても、約束のことを覚えていないかも知れない。だから、あの桜の丘にはきっと、誰も来ないんだと思います。それでもあたしには何よりも大切な誓いです。
Nくん、大好きだよ。こんなあたしで、ごめんね。
…ラジオネーム、恋するSちゃん! いやあ、切ないねえ! そんな恋するSちゃんに捧げるナンバーはこちら! 春の日フォーリンラブ!」
なんてこった!
僕の誕生日っていったら今日じゃないか!
時計を見るまでもなくなく、とっくに日が暮れている。
こうしちゃいられない!
僕は着の身着のまま自宅を飛び出す。
そこには意外な人影があった。
「俺からのバースデイプレゼントはここからだぜ近藤!」
「春樹…!」
アパートの前で、春樹が自転車に股がっている。
「乗れ!」
何が起こったのか解らなくて混乱してしまったけれど、僕はもつれた足でせかせかと自転車に乗り込む。
春樹が叫んだ。
「飛ばすぜ! しっかり捕まってろよ!」
2人乗りとはとても思えない勢いで自転車が加速してゆく。
春樹に謝ったらいいのかお礼を言ったらいいのか判断できなくて、結局何も言えない。
自転車が細い道に入る。
どこかで聞いたことがあるような男の声がした。
「あれ? おいテツ。あいつ、いつかの…」
「おう、待て兄ちゃん、コラぁ~!」
春樹が「ちっ! 西高の奴らか」と毒づいた。
以前さっちゃんに絡んでいた2人が、行く手を塞いでいる。
「おうヒーローさんよお、会いたかったぜコラぁ~」
「オメーのおかげでこちとらポリ公に散々絞られたんだ。たっぷりお礼させてもらうぜコラぁ~」
よりによって、こんなときに。
最悪だ。
僕の顔色は相当悪くなったに違いない。
解決策がまるで見えなかったからだ。
しかし、春樹が自転車を降り、ハンドルを僕に持たせる。
「近藤! 俺のチャリ使え!」
「え?」
「あの丘には別の道からも行けるだろ?」
「え、でも春樹、お前が…」
「行け近藤! これ以上、さっちゃん待たせるんじゃねえよ」
不良たちが迫ってくる。
「なにごちゃごちゃ言ってんだコラぁ~」
「西高の風神テツと雷神カズ舐めんじゃねえぞコラぁ~」
そんな彼らの声をかき消すかのように春樹が吠える。
「行け近藤!」
すまない!
と告げて、僕は自転車に股がった。
「あ、待ちやがれコラぁ~!」
「逃がさねえぞコラぁ~!」
「おっと!」
春樹が2人組の前に立ちはだかるのが、背中越しに解った。
「ここから先は通行止めだぜ?」
すまない、春樹。
ありがとう。
心の中で告げながら、ペダルを漕ぐ足に力を込める。
------------------------------
小さなシャベルでそこを掘ると、出てきたのは小さな箱だ。
開けると、出来がいいだなんてお世辞でも言えないようなリングが2つ。
知らない人が見たらゴミにしか見えないだろうなあ。
色付きの針金で作られた婚約指輪だ。
「あはは。ちっちゃい」
3歳児の薬指に合わせたサイズのそれは、付けてみると指の途中で止まった。
あの頃は、一生懸命これを作って、この桜の木の下で結婚するなんて夢を2人で思い描いていたっけ。
この指輪が入らなくなるぐらい大きくなった今は、そんな夢ももう見ちゃいけないのかも知れない。
ぽたりと、指輪に雫が落ちた。
「なおくん、素直になれなくって、ごめんね」
あたしは無理に笑って桜の木を見上げる。
「えへへ。一生、一緒に居たいのは、昔も今も変わらないんだけどなあ。あたし、やっぱりダメだなあ」
「ダメなんかじゃないよ!」
「…え?」
驚いて振り返る。
あたしはそれで、さらに驚くことになった。
近藤くんが息を切らせ、肩を大きく上下させている。
「近藤くん!? どうして!?」
「さっちゃんに、言いたいことがあって」
春を思わせる暖かい風が吹いて、さあっと夜桜が揺れた。
「あたしに、言いたいこと?」
「うん」
近藤くん、いや。
なおくんが息を整えて、あたしの正面に立つ。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
涙が一気にこぼれだすのを、あたしは必死に笑って誤魔化した。
「なんか、男らしくないー」
桜の花びらが踊る。
なおくんが優しげな目で、あたしの髪を撫でた。
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
えへへ、とあたしは涙を拭う。
なおくんの胸に顔を埋めて、あたしは彼の背中に手を回した。
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「約束、覚えててくれたんだ」
抱きしめると、さっちゃんはポツリとそう言った。
「もちろん」
包み込むようにして彼女の髪に手を添える。
夜風がまた吹いて、桜の花びらをさらに降らせた。
ふと丘の麓で何かが動いたような気がして目をやると、親友が気取った素振りで肩をすぼめている。
春樹はそのまま踵を返すと、背中越しに手を降って自転車に乗り、帰ってゆく。
「どうしたの? なおくん」
「ううん、なんでもないよ。それより、待たせてごめん」
「えへへ。15年も、だもんね」
僕も少し笑って、さっちゃんから指輪の片方を受け取った。
それはとても小さくて、薬指の先で止まってしまう。
「ちゃんとした指輪、買わなきゃいけないなあ」
「ううん。これで充分だよ」
さっちゃんが僕の首に腕を回した。
「その代わり、守ってね。一生」
彼女が目を閉じて、つま先立ちをする。
桃色の花びらが僕らを包み込んだ。
唇を離すと、僕はようやく胸を無で下ろす。
長かった。
本当に、本当に長かった。
3歳のときに1度。
18歳になって、もう1度。
どうやら2回で、僕のプロポーズは成功したみたいだ。
――了――
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
2011
December 28
December 28
第1話・再会
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
第2話・募る想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
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「もしもし? あの、あたし近藤くんと同じクラスの畑中っていいます」
「あ、さっちゃん? 僕だよ」
この僕の返しに、妹がやたらと表情を輝かせた。
一体誰に似たのか、妹は好奇心いっぱいに僕の持つ受話器に耳をくっつけようと頬を寄せてくる。
聞き耳を立てられているとも知らず、さっちゃんが言った。
「あ、近藤くん? 今、電話、平気だった?」
「もちろん! あ、ちょっと待ってて」
しっしと妹を追っ払おうとしたけれど、こいつはどうにもしつこく、そばを離れようとしない。
さっちゃんとの会話を聞かれたくないから僕が部屋の隅まで避難したいところだけど、電話のコードが長くないからそれもできない。
仕方ない。
落ち着かないけど、妹を振り切ることは諦めよう。
「あ、ごめんね、さっちゃん。もう大丈夫」
「あ、うん。突然なんだけどね? 近藤くん、今日って何か予定ある?」
「え? 今日? 今からってこと?」
「うん。優子ちゃんや春樹くんと一緒に、うちで勉強会しようってことになって…」
「さっちゃん家で!?」
「うん。狭いアパートだけど、もしよかったら」
さっちゃんの家に遊びに、いや。
勉強しに行けるだって!?
高まる鼓動を抑え、僕は極めて自然体を装う。
「いやあ! 奇遇だなあ! 僕も今から猛勉強しようと思ってたんだよ! でも僕、集中力が続かないからなあ! 丁度誰かと一緒に勉強できたらなあーって思っていたんだよ! いや実にタイミングがいい!」
「本当?」
受話器の向こうで、さっちゃんが嬉しそうな声を出した。
「じゃあ、これから4人でお勉強、しよ」
「しますとも!」
満面の笑みを浮かべながら、「じゃあ後ほど!」と約束をし、受話器を置く。
「はあ~」
突然舞い降りた幸運に、ついだらしなく口元が緩む。
力強くほっぺたをつねってみた。
「痛い…。夢じゃない…」
「ねえねえ! お兄ちゃん!」
妹が僕を揺さぶる。
「今の人って誰!? お兄ちゃんの彼女!?」
「ち、違うよ!」
「海に一緒に行った人でしょ!?」
「いや、そ、そうだけどさ」
「今からデート!?」
「バ…! なに言ってんだ! さっちゃんとはそんな仲じゃ…!」
「ふうん。さっちゃんていうんだ?」
「う、うるさいな!」
妹を振り切り、自分の部屋に足を向ける。
「に、兄ちゃんこれから勉強会なんだ! そんな浮かれていられないよ!」
教科書や参考書、ノートに筆記用具を鞄に詰め込む。
せかせかと足早に玄関を開け、僕は制服姿のまま飛び出した。
「きゃ」
「あ、ごめんなさい!」
うちは玄関前がそれほど広くないアパートだ。
家を出た瞬間、隣に住むお姉さんとぶつかってしまった。
「ンもう」
どこか色っぽく、お姉さんが茶色い髪を耳にかける。
「気をつけなさい? ボウヤ」
「は、はい! す、すみません!」
このお姉さん、いっつも薄着だし、胸元とか太ももとか、肌を露出させる服ばかりを着ている。
目のやり場に、実に困る。
「ンフフ。これからデート?」
「い、いえ、そういうわけじゃ…!」
「照れちゃって、可愛い」
「そ、そんな! か、からかわないでください!」
僕は鞄を背負い直し、「失礼します!」と慌ててアパートを飛び出した。
------------------------------
「そ、そうだ! 近藤くんが来る前に、ベスを隠さなきゃ!」
3歳の頃、なおくんから貰ったクマのぬいぐるみ。
すっかりくたびれてしまった宝物を、あたしは顔の高さまで掲げる。
「ごめんね、ベス。ちょっと押入れに隠れてて」
もし近藤くんにベスを見られたら、あたしが幼馴染だったと気づかれてしまうだろう。
あたしが昔の婚約者だったってことを解ってもらいたい気持ちと、今はまだ隠しておきたいという照れ。
しばらくは恥じらいの感情のほうが先立ちそうだ。
フスマを開け、畳まれた布団の上にそっとベスを寝かせた。
友人たちを招き入れる。
あたしの部屋は一気に賑やかになって、とても勉強をしているような雰囲気ではない。
「ちょっと春樹、あたしの消しゴム勝手に持っていかないでよ」
「いいだろ? 少しぐらい貸せよ」
「少しぐらいって、あんたすぐ無くすじゃない。ホントだらしないんだから」
「なんだと!?」
「なによ!?」
優子ちゃんと春樹くんの微笑ましいやり取りを見て、あたしと近藤くんは目を合わせると、お互い少し肩をすぼめた。
いつものことながら、2人のケンカはさらにエスカレートしてゆく。
「だいたい佐伯! お前だって人のこと言えねえじゃねえか!」
「なんでよ!?」
「俺の部屋でテレビのチャンネル変えようとして、一生懸命電話の子機をテレビに向けてたクセによ!」
「ちょ…! そ、それは関係ないでしょ今!?」
「あれえ? テレビが反応しなーい! このリモコン電池切れてるよ春樹ー?」
「う、うるさいわね!」
「新しい電池どこー?」
「もー! やめてよ!」
「きゃ! いきなり着信音があ! これ、電話の子機じゃなーい!」
「い、いい加減にしなさいッ!」
優子ちゃんの鉄拳が炸裂する。
春樹くんは「ぐあッ」と悲痛な叫びを上げ、吹っ飛ばされた。
押入れに激突し、フスマが外れる。
「あ!」
と、思わず叫ぶ。
衝撃でベスが落ち、春樹くんの頭の上にストンと乗った。
「なんだこりゃ」
「あ、あの…!」
あたしはあたふたとベスを取り上げ、それを抱きしめたままみんなに背を向ける。
そのまま部屋を飛び出して、ベスを台所に隠した。
戻ると、3人とも頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
あたしは「あはは」と指をもじもじさせ、「じゃ、勉強の続きしよっか?」と強引に誤魔化す。
…という一連の出来事をハガキに書いて、あたしはベットにごろりと横たわった。
このハガキはあとでポストに投函しておこう。
「あなたに降りかかった面白ハプニング」のコーナーに採用されるかなあ。
あたしは仰向けのまま、ベスを両手で持ち上げる。
すっかりくたびれた子グマのつぶらな瞳が、あたしを見つめた。
「ねえベス? 近藤くんに、ベスのこと見られちゃったかなあ? どうしよう。あたしが幼馴染のさっちゃんだって、気づかれちゃったかなあ? べスー、どうしよ~。近藤くん、今頃どんなこと考えてのかなあ?」
------------------------------
「はっくしょん!」
誰か僕の噂でもしているのか、帰り道で大きなクシャミが出た。
鼻をすすって、僕は遠い遠い昔を回想をする。
「さっちゃん、これ! プレゼント! 大事にしてね」
「なおくん…」
「また逢えるよね? それまで寂しいと思って、ぬいぐるみ」
「なおくん! 大好きだよ! また逢おうね! 絶対絶対逢おうね!」
「うん! 待ってるよ! 元気でね! …元気でね、さっちゃん!」
さっちゃんの部屋で見たあのクマのぬいぐるみは、僕が幼馴染に贈った物にとてもよく似ていた。
いや、似ていたどころか、同じ物だったように思う。
十数年経ったかのような、あの古びた感じ。
幼馴染のさっちゃんは引越しをして行ったけど、もしかして戻ってきていたのではないだろうか。
こっちのさっちゃん、畑中早苗さんは去年転校してきたって言っていたし、もしかして同一人物なんじゃ…?
アパートの階段を登る。
もうすぐ家だ。
「早苗の『さ』は、さっちゃんの『さ』、か…」
ぶつぶつとつぶやいていると、突然目の前が真っ暗になって、柔らかい感触が顔を覆った。
「あら」
女の人の声だ。
びっくりして身を引くと、またしてもお隣さんだった。
お姉さんの胸に、僕は顔からぶつかってしまったらしい。
「す、すみません!」
「フフ」
お姉さんが口元のホクロをわずかに吊り上げる。
「また何か考え事してたの? ダメよ? ちゃんと前を見ないと」
「あ、はい、すみませんでした!」
「あらあら。堅くなっちゃって、緊張してるのかしら?」
「いえ! そんなことは…!」
「フフ。ブレザーのネクタイ、ズレてるわよ?」
「え、あ…」
「お姉さんが直して、あ、げ、る」
お姉さんが僕の首元に両手を添え、少しかがむ。
僕はドギマギと気を付けの姿勢になり、固まった。
------------------------------
あたしは1冊のノートを手に、公園で花を摘んだ。
いつか生徒手帳を届けに行ったことがあるから、近藤くんの家がどこにあるのかは解る。
ただ、つい今しがたベスを見られてしまったせいで、逢いに行きたくても抵抗があった。
さっきの勉強会で、近藤くんが忘れていったノート。
学校で渡してもいいんだけど、せっかくの逢うチャンスだ。
この機会を無駄にしたくない気持ちもあった。
あたしは花びらを1枚1枚引き抜いてゆく。
「ノートを届けに行く、行かない、行く、行かない…」
こうしてあたしは今、近藤くんのアパートの前に立っている。
心の中で呪文のように唱えた。
「さっきのベスを見て、近藤くんが何か思い出してしまったかどうかだって、逢って反応を見たら解るでしょ? 勇気出せ、早苗!」
階段を登る。
そこで、あたしはこの世で最も見てはいけないものを見たような心地がした。
直立不動でこちらに背中を向けている近藤くん。
その正面に年上らしい女の人がかがんでいて、近藤くんに顔を寄せている。
顔を話すと彼女は「ちゃんとしなきゃダメよ」などと言った。
まさか、キス、してたの…?
あたしはすっかり動揺してしまって、ノートを落とし、その場を走り去る。
「あ、さっちゃん!」
背後から、近藤くんの声が聞こえた。
りんりんりん。
夜になって、あたしの家の電話は何度も鳴る。
「もしもし、さっちゃん!? 僕だよ! 話を聞いて!」
「知らない!」
あたしはその都度電話を切って、そして泣いた。
近藤くんに恋人がいたなんて…。
脳裏には、口づけを交わすさっきの光景が繰り返し映し出されている。
思い出したくないのに…。
りんりんりん。
再び着信を知らせるベル。
あたしは苛立って、乱暴に受話器を取った。
「しつこいわね! 知らないって言ってるでしょ!?」
「ん? 何を知らないんだ?」
近藤くんじゃない声に一瞬にして顔が青くなった。
「や、安田先生!?」
「おう。畑中か?」
「は、はい! すみませんすみません!」
うちの担任の先生だった。
「悪いな突然。今、電話平気か?」
「は、はい! 大丈夫です!」
「そうか。いきなりで悪いんだがな、畑中、次の日曜、なんか予定あるか?」
「え? 日曜、ですか?」
「ああ。先生サッカー部の顧問やってるだろ?」
「はい」
「今度の日曜、3年生の引退試合なんだ。なんだが、マネージャーが1人来られなくなってな。お前、うちの部の近藤や春樹なんかとも仲いいだろう? もし空いてたら是非手伝ってほしいと思ってな。どうだ?」
「3年生の、引退試合、ですか…」
近藤くんの顔が。
さっきのキスシーンが再び浮かんで、胸がズキンと痛む。
「どうした? どこか具合が悪いのか?」
「いえ、そういうわけじゃ…」
「先生、最近何かと悩みを打ち明けられる機会が多くってなあ~」
受話器の向こうで、先生が微笑んだような気がした。
「畑中。あまり自分の中だけに溜め込むなよ? 誰かに打ち明けるだけでも、ずいぶん気が楽になるもんだ。先生でもよかったら、いつでも待ってるからな」
とても優しいその声に、あたしはついに泣き出して、受話器をぎゅっと強く握り込む。
------------------------------
日曜日。
そわそわと、僕はさっちゃんの家の前で待つ。
どうにかして誤解を解かないと。
先日かかってきた先生からの電話のおかげで僕はチャンスを得ていて、それで今ここにいる。
「引退試合の日、急遽畑中にマネージャーを頼んだんだ。近藤お前、悪いんだが、日曜、畑中を迎えに行ってくれないか?」
ようし、今日こそ話を聞いてもらうぞ!
そして、好きだって気持ちを伝えよう。
こないだ気づいたんだ。
やっぱりさっちゃんは、3歳の頃に婚約をした運命の人だった。
そのことが解ったおかげで、僕は自分の気持ちを知ることもできたんだ。
僕はゴクリと喉を鳴らした。
まず、なんて切り出そう?
「やあさっちゃん! おはよう! さ、行こっか!」
そんなのダメだ、軽すぎる。
「本日はマネージャーを引き受けてくださり、誠にありがとうございます。さ、参りましょう」
ダメダメ!
時代劇じゃないんだから!
「ごめんね、今日はよろしくお願いね? 悪いね、日曜に。ホントすみません」
卑屈すぎる。
「難しいなあ」
「…なにが難しいの?」
「うわおう! さっちゃん!?」
いつの間にか後ろにさっちゃんが立っていて、僕は小さく飛び上がった。
「お、おはよう!」
声をかけるがしかし、さっちゃんは何も返してはくれず、下を向いて黙ったままだ。
「い、行こうか」
試合会場までそのまま、僕らは言葉を交わすことはなかった。
このままじゃダメだ。
ユニホームに着替え、もうすぐキックオフ。
僕はさっちゃんをグラウンドの隅へと連れ出す。
「お願い! こっち来て!」
「…なあに?」
「お願いがあるんだ」
「…どんな?」
「僕の話を、ちゃんと聞いてほしい」
しかしさっちゃんは返事をしない。
構わず、僕は続けた。
「約束して? この試合に勝ったら、僕の話を聞いてくれる、って。その、大事な話だから」
さっちゃんからの返事を待たず、僕は踵を返し、グラウンドへと向かった。
------------------------------
試合開始を告げるホイッスルが鳴り響く。
相手チームは強かった。
春樹くんの調子も良くないみたいだし、全体的にペースが掴めていないように、あたしには見えた。
近藤くんは、大事な話があるって言っていた。
良い知らせなのか悪い知らせなのか全く解らなくて、あたしはもやもやと落ち着かない気分のままだ。
後半戦になると、相手チームの猛攻が始まる。
それまで0対0だったのが、先取点を取られてしまった。
このまま時間が来て試合が終わってしまったら、近藤くんはあたしに「大事な話」をしてくれないのだろうか。
ぎゅっと強く、あたしは手を合せ、組んだ。
お願い!
勝って!
近藤くん!
------------------------------
ピーとホイッスルの音がして、試合が終わる。
僕は「ふう」と大きく息を吐いた。
結果は、0対1。
完敗だ。
整列し、お互いに一礼を交わして、控え室で安田先生からの叱咤激励を受けて、僕ら3年生は無事、引退を果たした。
「はあ…」
我ながら溜め息が深い。
さっちゃんへの想いを伝えることは、どうやらもうできないようだ。
ここ最近ずっとそっけないままだった彼女はきっと、もう以前のような笑顔を僕に向けてはくれないだろう。
せめて試合にさえ勝っていれば…。
いや、過ぎたことだ。
いっそすっぱり諦めよう。
控え室で着替え終え、僕はさり気なく部員たちと離れて、とぼとぼと家路を歩き出す。
空は曇っていて、今にも泣き出しそうだ。
「はあ…」
何度目かになる溜め息を、僕はまたついた。
つん。
と、肘あたりの袖を後ろから引っ張られる。
「え?」
振り返ると、僕は目を大きく見開いた。
「さっちゃん…!?」
「その…、試合には負けちゃったけど、大事な話って、なんなのか気になっちゃって…」
さっちゃんはうつむいたまま、小声でそう言った。
突然の展開に、僕はゴクリと息を飲み込む。
これは、神様がくれた最後のチャンスだ!
落ち着け!
落ち着くんだ近藤直人!
しっかりと、さっちゃんに気持ちを伝えるんだ!
好きだって言うんだ!
僕は意を決し、さっちゃんの顔を真正面から見据える。
「さっちゃん、大事な話っていうのはね? 僕…」
やはりなかなか切り出せない。
僕はぎゅっと強く目をつぶった。
「僕…! す、好きな人がいるんだ!」
「あはは」
この場にふさわしくない笑い声。
目を開けると、さっちゃんは目に涙をいっぱいに溜めて微笑んでいる。
「そんなことだろうと思った」
「え?」
「綺麗な人だもんね」
「え? なにが?」
「ああいう大人な女の人、いいなあ。近藤くんったら、隅に置けないんだから」
「え? いや…」
「末永くお幸せにね」
その言葉に、僕の胸がズキンと傷んだ。
そうか…。
さっちゃんは、やっぱり僕のことを避けているんだ。
考えてみたら、さっちゃんがクマのぬいぐるみをわざわざ隠していたのだって、僕に正体を隠したいからじゃないか。
そうだよ。
まだ小さかったあの頃と今は違うんだ。
今のさっちゃんは僕に恋なんてしてないし、むしろ僕が想いを寄せたって迷惑なだけなんだ…。
僕は精一杯の笑顔を作る。
「いやあ、参ったなあ。もう逢えなくなるみたいな言い方しないでよ。これからもさ、なんかあったらまたみんなで遊ぼう? 僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
「そ、そうだよね!」
さっちゃんの瞳からポロポロと涙がこぼれた。
にもかかわらず、彼女は満面の笑みを浮かべている。
「あたしたち、友達、だもんね! これからもまた、あ、遊ぼうね!」
さっちゃんがぐいっと涙を拭う。
「さよなら」
そのまま振り返ると、さっちゃんは駆け出し、行ってしまった。
ポツポツと雨が降り出して、やがて大降りになる。
僕はそれでも、その場からしばらく動けない。
最終話「昨日からの卒業」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/462/
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
第2話・募る想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
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「もしもし? あの、あたし近藤くんと同じクラスの畑中っていいます」
「あ、さっちゃん? 僕だよ」
この僕の返しに、妹がやたらと表情を輝かせた。
一体誰に似たのか、妹は好奇心いっぱいに僕の持つ受話器に耳をくっつけようと頬を寄せてくる。
聞き耳を立てられているとも知らず、さっちゃんが言った。
「あ、近藤くん? 今、電話、平気だった?」
「もちろん! あ、ちょっと待ってて」
しっしと妹を追っ払おうとしたけれど、こいつはどうにもしつこく、そばを離れようとしない。
さっちゃんとの会話を聞かれたくないから僕が部屋の隅まで避難したいところだけど、電話のコードが長くないからそれもできない。
仕方ない。
落ち着かないけど、妹を振り切ることは諦めよう。
「あ、ごめんね、さっちゃん。もう大丈夫」
「あ、うん。突然なんだけどね? 近藤くん、今日って何か予定ある?」
「え? 今日? 今からってこと?」
「うん。優子ちゃんや春樹くんと一緒に、うちで勉強会しようってことになって…」
「さっちゃん家で!?」
「うん。狭いアパートだけど、もしよかったら」
さっちゃんの家に遊びに、いや。
勉強しに行けるだって!?
高まる鼓動を抑え、僕は極めて自然体を装う。
「いやあ! 奇遇だなあ! 僕も今から猛勉強しようと思ってたんだよ! でも僕、集中力が続かないからなあ! 丁度誰かと一緒に勉強できたらなあーって思っていたんだよ! いや実にタイミングがいい!」
「本当?」
受話器の向こうで、さっちゃんが嬉しそうな声を出した。
「じゃあ、これから4人でお勉強、しよ」
「しますとも!」
満面の笑みを浮かべながら、「じゃあ後ほど!」と約束をし、受話器を置く。
「はあ~」
突然舞い降りた幸運に、ついだらしなく口元が緩む。
力強くほっぺたをつねってみた。
「痛い…。夢じゃない…」
「ねえねえ! お兄ちゃん!」
妹が僕を揺さぶる。
「今の人って誰!? お兄ちゃんの彼女!?」
「ち、違うよ!」
「海に一緒に行った人でしょ!?」
「いや、そ、そうだけどさ」
「今からデート!?」
「バ…! なに言ってんだ! さっちゃんとはそんな仲じゃ…!」
「ふうん。さっちゃんていうんだ?」
「う、うるさいな!」
妹を振り切り、自分の部屋に足を向ける。
「に、兄ちゃんこれから勉強会なんだ! そんな浮かれていられないよ!」
教科書や参考書、ノートに筆記用具を鞄に詰め込む。
せかせかと足早に玄関を開け、僕は制服姿のまま飛び出した。
「きゃ」
「あ、ごめんなさい!」
うちは玄関前がそれほど広くないアパートだ。
家を出た瞬間、隣に住むお姉さんとぶつかってしまった。
「ンもう」
どこか色っぽく、お姉さんが茶色い髪を耳にかける。
「気をつけなさい? ボウヤ」
「は、はい! す、すみません!」
このお姉さん、いっつも薄着だし、胸元とか太ももとか、肌を露出させる服ばかりを着ている。
目のやり場に、実に困る。
「ンフフ。これからデート?」
「い、いえ、そういうわけじゃ…!」
「照れちゃって、可愛い」
「そ、そんな! か、からかわないでください!」
僕は鞄を背負い直し、「失礼します!」と慌ててアパートを飛び出した。
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「そ、そうだ! 近藤くんが来る前に、ベスを隠さなきゃ!」
3歳の頃、なおくんから貰ったクマのぬいぐるみ。
すっかりくたびれてしまった宝物を、あたしは顔の高さまで掲げる。
「ごめんね、ベス。ちょっと押入れに隠れてて」
もし近藤くんにベスを見られたら、あたしが幼馴染だったと気づかれてしまうだろう。
あたしが昔の婚約者だったってことを解ってもらいたい気持ちと、今はまだ隠しておきたいという照れ。
しばらくは恥じらいの感情のほうが先立ちそうだ。
フスマを開け、畳まれた布団の上にそっとベスを寝かせた。
友人たちを招き入れる。
あたしの部屋は一気に賑やかになって、とても勉強をしているような雰囲気ではない。
「ちょっと春樹、あたしの消しゴム勝手に持っていかないでよ」
「いいだろ? 少しぐらい貸せよ」
「少しぐらいって、あんたすぐ無くすじゃない。ホントだらしないんだから」
「なんだと!?」
「なによ!?」
優子ちゃんと春樹くんの微笑ましいやり取りを見て、あたしと近藤くんは目を合わせると、お互い少し肩をすぼめた。
いつものことながら、2人のケンカはさらにエスカレートしてゆく。
「だいたい佐伯! お前だって人のこと言えねえじゃねえか!」
「なんでよ!?」
「俺の部屋でテレビのチャンネル変えようとして、一生懸命電話の子機をテレビに向けてたクセによ!」
「ちょ…! そ、それは関係ないでしょ今!?」
「あれえ? テレビが反応しなーい! このリモコン電池切れてるよ春樹ー?」
「う、うるさいわね!」
「新しい電池どこー?」
「もー! やめてよ!」
「きゃ! いきなり着信音があ! これ、電話の子機じゃなーい!」
「い、いい加減にしなさいッ!」
優子ちゃんの鉄拳が炸裂する。
春樹くんは「ぐあッ」と悲痛な叫びを上げ、吹っ飛ばされた。
押入れに激突し、フスマが外れる。
「あ!」
と、思わず叫ぶ。
衝撃でベスが落ち、春樹くんの頭の上にストンと乗った。
「なんだこりゃ」
「あ、あの…!」
あたしはあたふたとベスを取り上げ、それを抱きしめたままみんなに背を向ける。
そのまま部屋を飛び出して、ベスを台所に隠した。
戻ると、3人とも頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
あたしは「あはは」と指をもじもじさせ、「じゃ、勉強の続きしよっか?」と強引に誤魔化す。
…という一連の出来事をハガキに書いて、あたしはベットにごろりと横たわった。
このハガキはあとでポストに投函しておこう。
「あなたに降りかかった面白ハプニング」のコーナーに採用されるかなあ。
あたしは仰向けのまま、ベスを両手で持ち上げる。
すっかりくたびれた子グマのつぶらな瞳が、あたしを見つめた。
「ねえベス? 近藤くんに、ベスのこと見られちゃったかなあ? どうしよう。あたしが幼馴染のさっちゃんだって、気づかれちゃったかなあ? べスー、どうしよ~。近藤くん、今頃どんなこと考えてのかなあ?」
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「はっくしょん!」
誰か僕の噂でもしているのか、帰り道で大きなクシャミが出た。
鼻をすすって、僕は遠い遠い昔を回想をする。
「さっちゃん、これ! プレゼント! 大事にしてね」
「なおくん…」
「また逢えるよね? それまで寂しいと思って、ぬいぐるみ」
「なおくん! 大好きだよ! また逢おうね! 絶対絶対逢おうね!」
「うん! 待ってるよ! 元気でね! …元気でね、さっちゃん!」
さっちゃんの部屋で見たあのクマのぬいぐるみは、僕が幼馴染に贈った物にとてもよく似ていた。
いや、似ていたどころか、同じ物だったように思う。
十数年経ったかのような、あの古びた感じ。
幼馴染のさっちゃんは引越しをして行ったけど、もしかして戻ってきていたのではないだろうか。
こっちのさっちゃん、畑中早苗さんは去年転校してきたって言っていたし、もしかして同一人物なんじゃ…?
アパートの階段を登る。
もうすぐ家だ。
「早苗の『さ』は、さっちゃんの『さ』、か…」
ぶつぶつとつぶやいていると、突然目の前が真っ暗になって、柔らかい感触が顔を覆った。
「あら」
女の人の声だ。
びっくりして身を引くと、またしてもお隣さんだった。
お姉さんの胸に、僕は顔からぶつかってしまったらしい。
「す、すみません!」
「フフ」
お姉さんが口元のホクロをわずかに吊り上げる。
「また何か考え事してたの? ダメよ? ちゃんと前を見ないと」
「あ、はい、すみませんでした!」
「あらあら。堅くなっちゃって、緊張してるのかしら?」
「いえ! そんなことは…!」
「フフ。ブレザーのネクタイ、ズレてるわよ?」
「え、あ…」
「お姉さんが直して、あ、げ、る」
お姉さんが僕の首元に両手を添え、少しかがむ。
僕はドギマギと気を付けの姿勢になり、固まった。
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あたしは1冊のノートを手に、公園で花を摘んだ。
いつか生徒手帳を届けに行ったことがあるから、近藤くんの家がどこにあるのかは解る。
ただ、つい今しがたベスを見られてしまったせいで、逢いに行きたくても抵抗があった。
さっきの勉強会で、近藤くんが忘れていったノート。
学校で渡してもいいんだけど、せっかくの逢うチャンスだ。
この機会を無駄にしたくない気持ちもあった。
あたしは花びらを1枚1枚引き抜いてゆく。
「ノートを届けに行く、行かない、行く、行かない…」
こうしてあたしは今、近藤くんのアパートの前に立っている。
心の中で呪文のように唱えた。
「さっきのベスを見て、近藤くんが何か思い出してしまったかどうかだって、逢って反応を見たら解るでしょ? 勇気出せ、早苗!」
階段を登る。
そこで、あたしはこの世で最も見てはいけないものを見たような心地がした。
直立不動でこちらに背中を向けている近藤くん。
その正面に年上らしい女の人がかがんでいて、近藤くんに顔を寄せている。
顔を話すと彼女は「ちゃんとしなきゃダメよ」などと言った。
まさか、キス、してたの…?
あたしはすっかり動揺してしまって、ノートを落とし、その場を走り去る。
「あ、さっちゃん!」
背後から、近藤くんの声が聞こえた。
りんりんりん。
夜になって、あたしの家の電話は何度も鳴る。
「もしもし、さっちゃん!? 僕だよ! 話を聞いて!」
「知らない!」
あたしはその都度電話を切って、そして泣いた。
近藤くんに恋人がいたなんて…。
脳裏には、口づけを交わすさっきの光景が繰り返し映し出されている。
思い出したくないのに…。
りんりんりん。
再び着信を知らせるベル。
あたしは苛立って、乱暴に受話器を取った。
「しつこいわね! 知らないって言ってるでしょ!?」
「ん? 何を知らないんだ?」
近藤くんじゃない声に一瞬にして顔が青くなった。
「や、安田先生!?」
「おう。畑中か?」
「は、はい! すみませんすみません!」
うちの担任の先生だった。
「悪いな突然。今、電話平気か?」
「は、はい! 大丈夫です!」
「そうか。いきなりで悪いんだがな、畑中、次の日曜、なんか予定あるか?」
「え? 日曜、ですか?」
「ああ。先生サッカー部の顧問やってるだろ?」
「はい」
「今度の日曜、3年生の引退試合なんだ。なんだが、マネージャーが1人来られなくなってな。お前、うちの部の近藤や春樹なんかとも仲いいだろう? もし空いてたら是非手伝ってほしいと思ってな。どうだ?」
「3年生の、引退試合、ですか…」
近藤くんの顔が。
さっきのキスシーンが再び浮かんで、胸がズキンと痛む。
「どうした? どこか具合が悪いのか?」
「いえ、そういうわけじゃ…」
「先生、最近何かと悩みを打ち明けられる機会が多くってなあ~」
受話器の向こうで、先生が微笑んだような気がした。
「畑中。あまり自分の中だけに溜め込むなよ? 誰かに打ち明けるだけでも、ずいぶん気が楽になるもんだ。先生でもよかったら、いつでも待ってるからな」
とても優しいその声に、あたしはついに泣き出して、受話器をぎゅっと強く握り込む。
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日曜日。
そわそわと、僕はさっちゃんの家の前で待つ。
どうにかして誤解を解かないと。
先日かかってきた先生からの電話のおかげで僕はチャンスを得ていて、それで今ここにいる。
「引退試合の日、急遽畑中にマネージャーを頼んだんだ。近藤お前、悪いんだが、日曜、畑中を迎えに行ってくれないか?」
ようし、今日こそ話を聞いてもらうぞ!
そして、好きだって気持ちを伝えよう。
こないだ気づいたんだ。
やっぱりさっちゃんは、3歳の頃に婚約をした運命の人だった。
そのことが解ったおかげで、僕は自分の気持ちを知ることもできたんだ。
僕はゴクリと喉を鳴らした。
まず、なんて切り出そう?
「やあさっちゃん! おはよう! さ、行こっか!」
そんなのダメだ、軽すぎる。
「本日はマネージャーを引き受けてくださり、誠にありがとうございます。さ、参りましょう」
ダメダメ!
時代劇じゃないんだから!
「ごめんね、今日はよろしくお願いね? 悪いね、日曜に。ホントすみません」
卑屈すぎる。
「難しいなあ」
「…なにが難しいの?」
「うわおう! さっちゃん!?」
いつの間にか後ろにさっちゃんが立っていて、僕は小さく飛び上がった。
「お、おはよう!」
声をかけるがしかし、さっちゃんは何も返してはくれず、下を向いて黙ったままだ。
「い、行こうか」
試合会場までそのまま、僕らは言葉を交わすことはなかった。
このままじゃダメだ。
ユニホームに着替え、もうすぐキックオフ。
僕はさっちゃんをグラウンドの隅へと連れ出す。
「お願い! こっち来て!」
「…なあに?」
「お願いがあるんだ」
「…どんな?」
「僕の話を、ちゃんと聞いてほしい」
しかしさっちゃんは返事をしない。
構わず、僕は続けた。
「約束して? この試合に勝ったら、僕の話を聞いてくれる、って。その、大事な話だから」
さっちゃんからの返事を待たず、僕は踵を返し、グラウンドへと向かった。
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試合開始を告げるホイッスルが鳴り響く。
相手チームは強かった。
春樹くんの調子も良くないみたいだし、全体的にペースが掴めていないように、あたしには見えた。
近藤くんは、大事な話があるって言っていた。
良い知らせなのか悪い知らせなのか全く解らなくて、あたしはもやもやと落ち着かない気分のままだ。
後半戦になると、相手チームの猛攻が始まる。
それまで0対0だったのが、先取点を取られてしまった。
このまま時間が来て試合が終わってしまったら、近藤くんはあたしに「大事な話」をしてくれないのだろうか。
ぎゅっと強く、あたしは手を合せ、組んだ。
お願い!
勝って!
近藤くん!
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ピーとホイッスルの音がして、試合が終わる。
僕は「ふう」と大きく息を吐いた。
結果は、0対1。
完敗だ。
整列し、お互いに一礼を交わして、控え室で安田先生からの叱咤激励を受けて、僕ら3年生は無事、引退を果たした。
「はあ…」
我ながら溜め息が深い。
さっちゃんへの想いを伝えることは、どうやらもうできないようだ。
ここ最近ずっとそっけないままだった彼女はきっと、もう以前のような笑顔を僕に向けてはくれないだろう。
せめて試合にさえ勝っていれば…。
いや、過ぎたことだ。
いっそすっぱり諦めよう。
控え室で着替え終え、僕はさり気なく部員たちと離れて、とぼとぼと家路を歩き出す。
空は曇っていて、今にも泣き出しそうだ。
「はあ…」
何度目かになる溜め息を、僕はまたついた。
つん。
と、肘あたりの袖を後ろから引っ張られる。
「え?」
振り返ると、僕は目を大きく見開いた。
「さっちゃん…!?」
「その…、試合には負けちゃったけど、大事な話って、なんなのか気になっちゃって…」
さっちゃんはうつむいたまま、小声でそう言った。
突然の展開に、僕はゴクリと息を飲み込む。
これは、神様がくれた最後のチャンスだ!
落ち着け!
落ち着くんだ近藤直人!
しっかりと、さっちゃんに気持ちを伝えるんだ!
好きだって言うんだ!
僕は意を決し、さっちゃんの顔を真正面から見据える。
「さっちゃん、大事な話っていうのはね? 僕…」
やはりなかなか切り出せない。
僕はぎゅっと強く目をつぶった。
「僕…! す、好きな人がいるんだ!」
「あはは」
この場にふさわしくない笑い声。
目を開けると、さっちゃんは目に涙をいっぱいに溜めて微笑んでいる。
「そんなことだろうと思った」
「え?」
「綺麗な人だもんね」
「え? なにが?」
「ああいう大人な女の人、いいなあ。近藤くんったら、隅に置けないんだから」
「え? いや…」
「末永くお幸せにね」
その言葉に、僕の胸がズキンと傷んだ。
そうか…。
さっちゃんは、やっぱり僕のことを避けているんだ。
考えてみたら、さっちゃんがクマのぬいぐるみをわざわざ隠していたのだって、僕に正体を隠したいからじゃないか。
そうだよ。
まだ小さかったあの頃と今は違うんだ。
今のさっちゃんは僕に恋なんてしてないし、むしろ僕が想いを寄せたって迷惑なだけなんだ…。
僕は精一杯の笑顔を作る。
「いやあ、参ったなあ。もう逢えなくなるみたいな言い方しないでよ。これからもさ、なんかあったらまたみんなで遊ぼう? 僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
「そ、そうだよね!」
さっちゃんの瞳からポロポロと涙がこぼれた。
にもかかわらず、彼女は満面の笑みを浮かべている。
「あたしたち、友達、だもんね! これからもまた、あ、遊ぼうね!」
さっちゃんがぐいっと涙を拭う。
「さよなら」
そのまま振り返ると、さっちゃんは駆け出し、行ってしまった。
ポツポツと雨が降り出して、やがて大降りになる。
僕はそれでも、その場からしばらく動けない。
最終話「昨日からの卒業」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/462/
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/