夢見町の史
Let’s どんまい!
2011
December 23
December 23
第1話・再会
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
------------------------------
「早苗だから、さっちゃんって呼ばれてるの」
そのさっちゃんとはクラスが別々なので、一緒の班になれるなんてことはなかった。
僕は古いお寺や仏像なんかを見て回るのは嫌いじゃないんだけど、周りの友達はこういうのが退屈みたいだ。
「早く自由時間になんねーかなあ」
「まあまあ」
僕は親友の肩を叩き、なだめる。
「せっかくの修学旅行なんだからさ、そういうこと言わない言わない」
紅葉が綺麗な古都は今、日本ではどこでも見られる街並みに変わってしまっているけれど、僕は秋の涼しげな空気を目一杯に吸い込んだ。
宿泊先の旅館は雰囲気のある木造の建物で風情があるし、料理も凄く美味しくて、僕はとっても満足だ。
入浴時間が限られているけれど、温泉があるというのもポイントが高い。
「近藤! お前、ジャンケンに負けたんだから、みんなの布団引いてから来いよ」
「とほほ…」
「じゃ、俺ら先に行ってるからなー!」
慣れない作業だけど、どうにか人数分の寝床を用意して、僕はあたふたしながらようやく浴場へと向かった。
「いい湯だなあ~」
僕があまりにももたもたしてしまったからなのか、みんなはもう上がってしまった後のようだ。
大急ぎで来たんだけどなあ。
大浴場には僕以外誰も人がいなくて、なんだか貸し切りをしているようで贅沢でもあり、同時にこんなに広いにもかかわらず1人きりで入っていることを寂しくも思った。
「あれ?」
どうやら誰か来たらしい。
脱衣所からガヤガヤと声が聞こえる。
だけど、なんだか様子がおかしいぞ?
喧騒に違和感を覚えた。
「うわあ! 広~い!」
「あたしたちが1番乗りみたいねー」
女子たち!?
なってこったァ!
焦って来たせいで男湯と女湯を間違えた!?
どうしよう!?
みんな僕に気づかず、こっちに来る!
僕は忍び込んだ暗殺者のように気配を絶つと、そそくさと岩で出来たライオンの陰に隠れ、女子たちに背を向けると、口元から下を湯船に沈める。
「さっちゃん、胸大きい~」
「ちょ。ちょっと! やめてよう!」
嘘だろォ!?
さっちゃんまで居るのかよぉー!
またさらに見つかっちゃいけない要素が増えた。
僕はさらに水面に身を隠し、ぶくぶくと顔を沈める。
------------------------------
みんなでわいわいお風呂に入るのも楽しいんだけど、1人でゆったりする時間も好きだ。
きゃっきゃと騒ぐクラスメイトたちを眺めながら、あたしはどこかの岩陰でのんびりしようと浴場を見渡す。
あの口からお湯を出してるライオンの辺りでいいかな。
湯に浸かって、ゆっくりと奥へ。
しかし、そこには既に先客があった。
あたしと同じ発想をする人も、そりゃいるよね。
メガネを外しているのでぼんやりとしか見えない。
短めのショートカットにしているその人はよっぽど温泉が好きなのか、頭の上半分しか湯面に出しておらず、こちらに背を向けているようだ。
あたしはその隣で足を伸ばすことにした。
とてもリラックスできていることが、自分でも解る。
「気持ちいいね~」
と、隣に声をかけた。
「さっちゃん…!? いえ、ううん? そ、そうね。き、気持ちいいわ?」
自然に声をかけたら、不自然な声が返ってきた。
それはそれは見事な裏声で、あたしは一瞬押し黙る。
「ねえ、大丈夫? のぼせてるの?」
「いいええ。だ、大丈夫だわ?」
「だわ…? ねえ、平気? なんか耳まで赤くなってるみたいだけど」
「本当に平気ですわよ? お構いなく」
とても平気とは思えない声色だ。
どこかふらふらしているし、これは湯あたりを起こしているんじゃないかしら。
「ねえ、無理しないで、具合が悪かったら先に上がるんだよ?」
「上がれるもんならさっさと上がりた…! ううん、なんでもないわよ?」
様子どころか言葉遣いまでおかしい。
あれ?
そういえば…。
あたしの脳裏にちょっとした疑問が浮かぶ。
うちのクラス、ここまで髪の短い子、いたっけ…?
------------------------------
背後に来たさっちゃんがほんの少し黙ったから嫌な予感はしたんだ…。
「あなた、誰…?」
その言い方からして、今の僕、もの凄く警戒されてる。
誰かと訊かれても返す言葉がなくて、僕は黙り込むしかなかった。
さっちゃんが皆に顔を向けるような気配を、背後で感じる。
「ちょっとみんな! こっち来…!」
「わああ!」
慌てて僕は振り返り、さっちゃんの口を手で覆って塞いだ。
「んんー! ん? んン?」
「そう! 近藤だよ! お願いだから静かに!」
と、僕は声を抑えた。
「間違えて女湯に入っちゃって、出られないんだ!」
「ンー、うん」
「あ、ごめん」
さっちゃんの口から手をどけると、彼女は湯船の中の体を手で隠しつつ、僕に背を向けた。
僕も慌ててそっぽを向く。
さっちゃんが小声になった。
「本当に、近藤くん…? あたし今、メガネなくて…」
「残念だけど、本当に僕だよ。でも信じて。僕、本当にここが男湯だと思って…」
「男湯だったよ?」
「え?」
「ここ、時間帯で男女の入浴時間、変わるから」
「ああ!? そうだ! 忘れてた! 僕ジャンケンに負けたからそれで…!」
「しっ! 静かに!」
「あ、ごめん」
どうやらさっちゃんに嫌われずに済んだようでそこは一安心だけれども、でもまだまだピンチだ。
「さっちゃん、僕どうにか出たいんだけど、どうしよう…」
「ええっと、ちょっと待ってて!」
背中越しに水音が聞こえた。
さっちゃんが立ち上がった気配があって、僕はついドキッとしてしまった。
僕の真後ろには今、産まれたまんまの姿のさっちゃんが…!
ちゃぷちゃぷと彼女はどこかに行って、やがて遠くから大声がした。
「きゃあ! 滑ったあ! あ、あたしのメガネがー!」
どうやら彼女は転んだ振りをしてくれたらしい。
不器用ながらに演技をしてくれた。
「あはは! あんたってどうしていつも何もないところで転ぶのよー!」
「だってー!」
「メガネがなんて? 落としちゃったの?」
「うん、あっちに滑って行っちゃった、と思うんだけど」
「どっちどっちー?」
「あっちー!」
女子たちの目が浴場の片隅に行っているうちに、僕はそそくさと脱衣所へと早歩きをした。
助かった…。
------------------------------
「さっきのお礼がしたいんだけど」
夜、近藤くんがそう進言してくれた。
鼻にティッシュを突っ込んでいるけど、これはのぼせたせいで鼻血でも出したのだろう。
「どんなお礼がいいかなあ?」
「そんなのいいのに」
「いいからいいから! このままじゃ僕の気が済まないから! なんでもいいから、なんか言ってみてよ」
「そうだなあ」
考え込む。
あまり図々しいお願いじゃなくて、近藤くんも一緒に楽しめるようなことがいいよね。
「あ!」
思いついた。
うちの班の子たちがさっき「男子の部屋がどんな感じなのか見てみたいよね」などと盛り上がっていたのだ。
「あのね? 近藤くん、嫌だったら断ってね?」
「うん、なんでもいいよ。なに?」
「うちの班のみんなで、近藤くんたちの部屋に遊びに行っても、いい…?」
------------------------------
「そんなのいいに決まってるよ!」
間髪入れず、僕は力強く言い切っていた。
こうして消灯後の今、この部屋は夢のようなことになっている。
中には「女なんかに興味ねえよ」と強がっている男子もいたけれど、「興味なければ喋らなきゃいいさ」と軽く流した。
最初は誰もが何を訊ねて何を話したらいいのか判断できないみたいで、ぎこちなかった。
でも、自己紹介とかなんだかんだやっているうちに盛り上がって、時間はあっという間に過ぎてゆく。
本来だったら「俺今日は寝ねえから!」なんて断言した奴がぐーぐーといびきをかいたり、「うちのクラスで1番可愛いと思う女子って誰?」なんて普段なかなかできない話をしたりする時間帯だ。
ドアに1番近かったのは親友の春樹だ。
その春樹が何かに気づき、小さく叫ぶ。
「やっべ! 見回り来る! 安田先生だ!」
「マジ!?」
ただ起きているってだけでも怒られてしまうだろうに、今はよそのクラスの女子を連れ込んでしまっている。
これが先生に見つかったら反省文どころじゃ済まされない!
僕は咄嗟にさっちゃんの手を掴んだ。
誰かが慌てて電気を消し、部屋は真っ暗闇に。
物音からして、みんな布団に潜り込んだようだ。
僕はさっちゃん布団に引き入れる。
2人で頭から布団を被って息を殺した。
心臓の音が高まる。
なんでここまでドキドキするのだろう。
先生がガチャリとドアを開けて、この部屋を覗き込んでいるからか?
解らない。
シャンプーのいい香りが、すぐそこでするからか?
解らない。
布団の中で、さっちゃんが僕に抱きついてきているからだろうか?
解らなかった。
先生が去ったあとも、僕らは「気配を消すため」という名目で、しばらくそのままの体勢でいた。
------------------------------
あれから、前以上に近藤くんを意識するようになってしまい、彼を見かけても何も話しかけられなくて、あたしはずっとうつむいてばかりいた。
時間ばかりが過ぎてゆく。
あたしがメガネをやめてコンタクトをするようになった冬。
クリスマスもバレンタインも、あたしの期待するような出来事は起きなくて。
さらに時間が流れ、春。
近藤君が17歳の誕生日を迎えたときも、何もしてあげられなかった。
それでも同じクラスになれたらいいなあ、と密かに思っていたら、その願いが通じたらしい。
あたしたちは3年生で一緒になった。
そして、夏。
「僕の伯父さんが民宿やってて、何人かで行こうと思うんだ。さっちゃん、夏休みにどう?」
あたしはそれでようやく「行きたい」と、素直な笑顔を近藤くんに向けることができた。
------------------------------
ずっと変な意識をしていたせいでさっちゃんとなかなか話せなかったから、「安くしとくから友達でも連れておいで」と言ってくれた伯父さんに感謝感謝だ。
おかげで、彼女を誘ういいきっかけになった。
去年の修学旅行から全く接することができなかったツケを取り戻すかのように、僕らは海で大はしゃぎをした。
「あはは。待てー!」
「やだー!」
浜辺で鬼ごっこをしてさっちゃんを追いかけたり、
「何を書いてたの?」
「ううん! なんでもないっ!」
「いいじゃん、教えてよ」
さっちゃんが砂浜に何かしらの落書きをしていたことを執拗にからかったり。
「今日はこれに乗ろうよ」
僕が叔父さんからゴムボートを借りてきたのは、2日目のお昼だ。
台風が近いせいか波が荒ぶっているけれど、僕はこれにさっちゃんを誘って一緒に乗った。
少し沖に出る。
「きゃあ!」
突然の大波にボートが激しく揺れて、さっちゃんを海面へと放り投げる。
「あはは。大丈夫? さっちゃん」
手を差し延べるが、しかし。
さっちゃんはバシャバシャと水面をかき、暴れている。
まさかさっちゃん、泳げない!?
僕はさっちゃんを抱えようと、大慌てて飛び込む。
しかし、その判断は間違っていた。
溺れる人というのは必死だから、目の前に何かあったら無条件でしがみついてしまう。
正面から近づいてしまった僕はしたがって、さっちゃんに羽交い締めにされてしまい、そのまま一緒に溺れることとなってしまった。
「さっちゃ、ちょ…! 離し…!」
このままじゃ2人とも助からない!
息ができなくて、海水が鼻から口から入ってきて苦しい。
死ぬってこんなに辛いことなのか…!?
と思っていたら、僕を掴んでいた腕がふわりと離れる。
どうにかボートまで泳ぎ、掴まって一息つくと、僕は再び青ざめた。
「さっちゃん!」
彼女は、僕よりも先に気を失ってしまっていた。
ボートを浮きにし、ようやくさっちゃんを浜辺まで運んできた。
彼女は気を失っていて、このまま大事に至ってしまうのではないかと、僕らはてんやわんやだ。
成績優秀な伊集院くんや白鳥麗子さんといった頼り甲斐のあるクラスメイトがたまたま岩場を見に行って不在だったことも、タイミングが悪かった。
「どうしよう!?」
春樹に頼ると、あいつは断言をする。
「人工呼吸だ近藤!」
「そんなの、やったことないよ! 佐伯さんは!?」
女子は女子で「あたしだってないわよ! いいから早くやって近藤くん!」と、何故か僕に振る。
「そんな! 命が関わってるのに、僕なんかじゃ…! 春樹やってくれよ!」
「俺のほうがもっとわかんねえよ! 佐伯やれよ!」
「あたしはこの場で最もそういうのに詳しくないわよ! いいから近藤くん!」
「だ、だって! 無理だよ人工呼吸なんて! 春樹! 頼む!」
「そ、そうか。これも人命救助だ、し、仕方ねえ…。…あのさ、人工呼吸って、舌入れてもいいんだっけ?」
「やっぱり僕がやるよ春樹」
改めて、まじまじとさっちゃんを顔を見つめる。
彼女は目を閉じたままだ。
こんなときにそんなことを感じちゃいけないのは解ってる。
解ってはいるんだけど、人工呼吸、かあ。
言うまでもなく、それはマウス・トゥ・マウスだ。
唇に、唇をあてなくてはならない。
さっちゃんの唇に、僕の唇を…。
いやいやいかん!
そんな邪な発想を持つなんて不純だ!
これはキスじゃなくて、人命救助なんだから!
僕はさっちゃんの鼻を摘んで、口を近づける。
そんな僕の様子をまじまじと見つめる春樹と佐伯さんの視線を感じた。
あと1秒で、僕の唇はさっちゃんの唇と接触する。
というそのとき、
「あたし溺れてた!?」
ガバっとさっちゃんが起き上がり、彼女の額が僕の顔面を強打した。
「ぐあッ!」
遠のく意識の中、思う。
次に気を失うのは、どうやら僕のようだ。
------------------------------
優子ちゃんや春樹くんの話によると、近藤くんは溺れて気を失っていたあたしを助けようとしてくれたらしい。
それなのに、あたしが急に起き上がってしまったせいで…。
浜辺に立てたパラソルの下で、あたしは両膝を揃え、崩した正座のような姿勢で涼んでいる。
近藤くんの頭は、そんなあたしの太ももの上にあった。
「そのうち勝手に目を覚ますよ」
春樹くんはそう言って笑っていたけど、あたしは責任を感じてしまい、とても近藤くんを放って遊ぶ気になんてなれない。
近藤くんの寝顔は、なんだか無邪気な子供みたいで、男の子にこんなこと言っちゃいけないのかも知れないけど、可愛い。
茶色がかった短い髪を、少しだけ撫でてみた。
「あれ?」
近藤くんの左の肩に、傷のような跡があることに気づく。
正面や背中から見たら解らない角度だ。
これは確かに傷跡だった。
再び、幼かったあのときを思い出す。
風で飛ばされた帽子を取るために崖に上り、そこから落ちて左肩を怪我をしてしまった男の子…。
あたしの運命の人だった、なおくん。
近藤くんの下の名前は、直人…。
なおくん…。
「そんなまさか」
以前もなおくんイコール近藤くん説を勘ぐったことがあった。
あの時は冗談を思いついたような感覚だったけど、でも今は違う。
「んん~。…あれ? さっちゃん?」
近藤くんが目を覚ます。
「ご、ごめん! ずっと、その、膝枕、しててくれた…?」
「あ、ううん! こちらこそごめんね! あたしが勝手に溺れちゃっただけなのに」
「とんでもないよ!」
近藤くんが起き上がる。
「さっちゃんが無事でよかった~」
その笑顔は、間違いなく一緒だった。
幼少時代、あたしの帽子を取ってくれたときのなおくんの笑顔と、一緒だった。
「あの、近藤くん」
「ん? なに?」
「その肩って、怪我でもしたの?」
「あはは」
近藤くんは照れたように頭を掻いた。
「そうなんだ。子供の頃、崖から落ちてね」
「それって、何かを取りに登ったとかで?」
すると彼は目を丸くする。
「よく解ったね! なんで解ったの?」
間違いない。
この人だ。
この人、なおくん本人だったんだ。
あたしと将来を誓い合った、運命の人…。
…この一連のエピソードはハガキに書いて、いつものラジオ局に投稿しておこう。
誰にも話せない、あたしの秘密。
あの人に気づかれたら恥ずかしい。
でも、気づいてほしいから。
第3話「すれ違う想い」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/459/
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
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「早苗だから、さっちゃんって呼ばれてるの」
そのさっちゃんとはクラスが別々なので、一緒の班になれるなんてことはなかった。
僕は古いお寺や仏像なんかを見て回るのは嫌いじゃないんだけど、周りの友達はこういうのが退屈みたいだ。
「早く自由時間になんねーかなあ」
「まあまあ」
僕は親友の肩を叩き、なだめる。
「せっかくの修学旅行なんだからさ、そういうこと言わない言わない」
紅葉が綺麗な古都は今、日本ではどこでも見られる街並みに変わってしまっているけれど、僕は秋の涼しげな空気を目一杯に吸い込んだ。
宿泊先の旅館は雰囲気のある木造の建物で風情があるし、料理も凄く美味しくて、僕はとっても満足だ。
入浴時間が限られているけれど、温泉があるというのもポイントが高い。
「近藤! お前、ジャンケンに負けたんだから、みんなの布団引いてから来いよ」
「とほほ…」
「じゃ、俺ら先に行ってるからなー!」
慣れない作業だけど、どうにか人数分の寝床を用意して、僕はあたふたしながらようやく浴場へと向かった。
「いい湯だなあ~」
僕があまりにももたもたしてしまったからなのか、みんなはもう上がってしまった後のようだ。
大急ぎで来たんだけどなあ。
大浴場には僕以外誰も人がいなくて、なんだか貸し切りをしているようで贅沢でもあり、同時にこんなに広いにもかかわらず1人きりで入っていることを寂しくも思った。
「あれ?」
どうやら誰か来たらしい。
脱衣所からガヤガヤと声が聞こえる。
だけど、なんだか様子がおかしいぞ?
喧騒に違和感を覚えた。
「うわあ! 広~い!」
「あたしたちが1番乗りみたいねー」
女子たち!?
なってこったァ!
焦って来たせいで男湯と女湯を間違えた!?
どうしよう!?
みんな僕に気づかず、こっちに来る!
僕は忍び込んだ暗殺者のように気配を絶つと、そそくさと岩で出来たライオンの陰に隠れ、女子たちに背を向けると、口元から下を湯船に沈める。
「さっちゃん、胸大きい~」
「ちょ。ちょっと! やめてよう!」
嘘だろォ!?
さっちゃんまで居るのかよぉー!
またさらに見つかっちゃいけない要素が増えた。
僕はさらに水面に身を隠し、ぶくぶくと顔を沈める。
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みんなでわいわいお風呂に入るのも楽しいんだけど、1人でゆったりする時間も好きだ。
きゃっきゃと騒ぐクラスメイトたちを眺めながら、あたしはどこかの岩陰でのんびりしようと浴場を見渡す。
あの口からお湯を出してるライオンの辺りでいいかな。
湯に浸かって、ゆっくりと奥へ。
しかし、そこには既に先客があった。
あたしと同じ発想をする人も、そりゃいるよね。
メガネを外しているのでぼんやりとしか見えない。
短めのショートカットにしているその人はよっぽど温泉が好きなのか、頭の上半分しか湯面に出しておらず、こちらに背を向けているようだ。
あたしはその隣で足を伸ばすことにした。
とてもリラックスできていることが、自分でも解る。
「気持ちいいね~」
と、隣に声をかけた。
「さっちゃん…!? いえ、ううん? そ、そうね。き、気持ちいいわ?」
自然に声をかけたら、不自然な声が返ってきた。
それはそれは見事な裏声で、あたしは一瞬押し黙る。
「ねえ、大丈夫? のぼせてるの?」
「いいええ。だ、大丈夫だわ?」
「だわ…? ねえ、平気? なんか耳まで赤くなってるみたいだけど」
「本当に平気ですわよ? お構いなく」
とても平気とは思えない声色だ。
どこかふらふらしているし、これは湯あたりを起こしているんじゃないかしら。
「ねえ、無理しないで、具合が悪かったら先に上がるんだよ?」
「上がれるもんならさっさと上がりた…! ううん、なんでもないわよ?」
様子どころか言葉遣いまでおかしい。
あれ?
そういえば…。
あたしの脳裏にちょっとした疑問が浮かぶ。
うちのクラス、ここまで髪の短い子、いたっけ…?
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背後に来たさっちゃんがほんの少し黙ったから嫌な予感はしたんだ…。
「あなた、誰…?」
その言い方からして、今の僕、もの凄く警戒されてる。
誰かと訊かれても返す言葉がなくて、僕は黙り込むしかなかった。
さっちゃんが皆に顔を向けるような気配を、背後で感じる。
「ちょっとみんな! こっち来…!」
「わああ!」
慌てて僕は振り返り、さっちゃんの口を手で覆って塞いだ。
「んんー! ん? んン?」
「そう! 近藤だよ! お願いだから静かに!」
と、僕は声を抑えた。
「間違えて女湯に入っちゃって、出られないんだ!」
「ンー、うん」
「あ、ごめん」
さっちゃんの口から手をどけると、彼女は湯船の中の体を手で隠しつつ、僕に背を向けた。
僕も慌ててそっぽを向く。
さっちゃんが小声になった。
「本当に、近藤くん…? あたし今、メガネなくて…」
「残念だけど、本当に僕だよ。でも信じて。僕、本当にここが男湯だと思って…」
「男湯だったよ?」
「え?」
「ここ、時間帯で男女の入浴時間、変わるから」
「ああ!? そうだ! 忘れてた! 僕ジャンケンに負けたからそれで…!」
「しっ! 静かに!」
「あ、ごめん」
どうやらさっちゃんに嫌われずに済んだようでそこは一安心だけれども、でもまだまだピンチだ。
「さっちゃん、僕どうにか出たいんだけど、どうしよう…」
「ええっと、ちょっと待ってて!」
背中越しに水音が聞こえた。
さっちゃんが立ち上がった気配があって、僕はついドキッとしてしまった。
僕の真後ろには今、産まれたまんまの姿のさっちゃんが…!
ちゃぷちゃぷと彼女はどこかに行って、やがて遠くから大声がした。
「きゃあ! 滑ったあ! あ、あたしのメガネがー!」
どうやら彼女は転んだ振りをしてくれたらしい。
不器用ながらに演技をしてくれた。
「あはは! あんたってどうしていつも何もないところで転ぶのよー!」
「だってー!」
「メガネがなんて? 落としちゃったの?」
「うん、あっちに滑って行っちゃった、と思うんだけど」
「どっちどっちー?」
「あっちー!」
女子たちの目が浴場の片隅に行っているうちに、僕はそそくさと脱衣所へと早歩きをした。
助かった…。
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「さっきのお礼がしたいんだけど」
夜、近藤くんがそう進言してくれた。
鼻にティッシュを突っ込んでいるけど、これはのぼせたせいで鼻血でも出したのだろう。
「どんなお礼がいいかなあ?」
「そんなのいいのに」
「いいからいいから! このままじゃ僕の気が済まないから! なんでもいいから、なんか言ってみてよ」
「そうだなあ」
考え込む。
あまり図々しいお願いじゃなくて、近藤くんも一緒に楽しめるようなことがいいよね。
「あ!」
思いついた。
うちの班の子たちがさっき「男子の部屋がどんな感じなのか見てみたいよね」などと盛り上がっていたのだ。
「あのね? 近藤くん、嫌だったら断ってね?」
「うん、なんでもいいよ。なに?」
「うちの班のみんなで、近藤くんたちの部屋に遊びに行っても、いい…?」
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「そんなのいいに決まってるよ!」
間髪入れず、僕は力強く言い切っていた。
こうして消灯後の今、この部屋は夢のようなことになっている。
中には「女なんかに興味ねえよ」と強がっている男子もいたけれど、「興味なければ喋らなきゃいいさ」と軽く流した。
最初は誰もが何を訊ねて何を話したらいいのか判断できないみたいで、ぎこちなかった。
でも、自己紹介とかなんだかんだやっているうちに盛り上がって、時間はあっという間に過ぎてゆく。
本来だったら「俺今日は寝ねえから!」なんて断言した奴がぐーぐーといびきをかいたり、「うちのクラスで1番可愛いと思う女子って誰?」なんて普段なかなかできない話をしたりする時間帯だ。
ドアに1番近かったのは親友の春樹だ。
その春樹が何かに気づき、小さく叫ぶ。
「やっべ! 見回り来る! 安田先生だ!」
「マジ!?」
ただ起きているってだけでも怒られてしまうだろうに、今はよそのクラスの女子を連れ込んでしまっている。
これが先生に見つかったら反省文どころじゃ済まされない!
僕は咄嗟にさっちゃんの手を掴んだ。
誰かが慌てて電気を消し、部屋は真っ暗闇に。
物音からして、みんな布団に潜り込んだようだ。
僕はさっちゃん布団に引き入れる。
2人で頭から布団を被って息を殺した。
心臓の音が高まる。
なんでここまでドキドキするのだろう。
先生がガチャリとドアを開けて、この部屋を覗き込んでいるからか?
解らない。
シャンプーのいい香りが、すぐそこでするからか?
解らない。
布団の中で、さっちゃんが僕に抱きついてきているからだろうか?
解らなかった。
先生が去ったあとも、僕らは「気配を消すため」という名目で、しばらくそのままの体勢でいた。
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あれから、前以上に近藤くんを意識するようになってしまい、彼を見かけても何も話しかけられなくて、あたしはずっとうつむいてばかりいた。
時間ばかりが過ぎてゆく。
あたしがメガネをやめてコンタクトをするようになった冬。
クリスマスもバレンタインも、あたしの期待するような出来事は起きなくて。
さらに時間が流れ、春。
近藤君が17歳の誕生日を迎えたときも、何もしてあげられなかった。
それでも同じクラスになれたらいいなあ、と密かに思っていたら、その願いが通じたらしい。
あたしたちは3年生で一緒になった。
そして、夏。
「僕の伯父さんが民宿やってて、何人かで行こうと思うんだ。さっちゃん、夏休みにどう?」
あたしはそれでようやく「行きたい」と、素直な笑顔を近藤くんに向けることができた。
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ずっと変な意識をしていたせいでさっちゃんとなかなか話せなかったから、「安くしとくから友達でも連れておいで」と言ってくれた伯父さんに感謝感謝だ。
おかげで、彼女を誘ういいきっかけになった。
去年の修学旅行から全く接することができなかったツケを取り戻すかのように、僕らは海で大はしゃぎをした。
「あはは。待てー!」
「やだー!」
浜辺で鬼ごっこをしてさっちゃんを追いかけたり、
「何を書いてたの?」
「ううん! なんでもないっ!」
「いいじゃん、教えてよ」
さっちゃんが砂浜に何かしらの落書きをしていたことを執拗にからかったり。
「今日はこれに乗ろうよ」
僕が叔父さんからゴムボートを借りてきたのは、2日目のお昼だ。
台風が近いせいか波が荒ぶっているけれど、僕はこれにさっちゃんを誘って一緒に乗った。
少し沖に出る。
「きゃあ!」
突然の大波にボートが激しく揺れて、さっちゃんを海面へと放り投げる。
「あはは。大丈夫? さっちゃん」
手を差し延べるが、しかし。
さっちゃんはバシャバシャと水面をかき、暴れている。
まさかさっちゃん、泳げない!?
僕はさっちゃんを抱えようと、大慌てて飛び込む。
しかし、その判断は間違っていた。
溺れる人というのは必死だから、目の前に何かあったら無条件でしがみついてしまう。
正面から近づいてしまった僕はしたがって、さっちゃんに羽交い締めにされてしまい、そのまま一緒に溺れることとなってしまった。
「さっちゃ、ちょ…! 離し…!」
このままじゃ2人とも助からない!
息ができなくて、海水が鼻から口から入ってきて苦しい。
死ぬってこんなに辛いことなのか…!?
と思っていたら、僕を掴んでいた腕がふわりと離れる。
どうにかボートまで泳ぎ、掴まって一息つくと、僕は再び青ざめた。
「さっちゃん!」
彼女は、僕よりも先に気を失ってしまっていた。
ボートを浮きにし、ようやくさっちゃんを浜辺まで運んできた。
彼女は気を失っていて、このまま大事に至ってしまうのではないかと、僕らはてんやわんやだ。
成績優秀な伊集院くんや白鳥麗子さんといった頼り甲斐のあるクラスメイトがたまたま岩場を見に行って不在だったことも、タイミングが悪かった。
「どうしよう!?」
春樹に頼ると、あいつは断言をする。
「人工呼吸だ近藤!」
「そんなの、やったことないよ! 佐伯さんは!?」
女子は女子で「あたしだってないわよ! いいから早くやって近藤くん!」と、何故か僕に振る。
「そんな! 命が関わってるのに、僕なんかじゃ…! 春樹やってくれよ!」
「俺のほうがもっとわかんねえよ! 佐伯やれよ!」
「あたしはこの場で最もそういうのに詳しくないわよ! いいから近藤くん!」
「だ、だって! 無理だよ人工呼吸なんて! 春樹! 頼む!」
「そ、そうか。これも人命救助だ、し、仕方ねえ…。…あのさ、人工呼吸って、舌入れてもいいんだっけ?」
「やっぱり僕がやるよ春樹」
改めて、まじまじとさっちゃんを顔を見つめる。
彼女は目を閉じたままだ。
こんなときにそんなことを感じちゃいけないのは解ってる。
解ってはいるんだけど、人工呼吸、かあ。
言うまでもなく、それはマウス・トゥ・マウスだ。
唇に、唇をあてなくてはならない。
さっちゃんの唇に、僕の唇を…。
いやいやいかん!
そんな邪な発想を持つなんて不純だ!
これはキスじゃなくて、人命救助なんだから!
僕はさっちゃんの鼻を摘んで、口を近づける。
そんな僕の様子をまじまじと見つめる春樹と佐伯さんの視線を感じた。
あと1秒で、僕の唇はさっちゃんの唇と接触する。
というそのとき、
「あたし溺れてた!?」
ガバっとさっちゃんが起き上がり、彼女の額が僕の顔面を強打した。
「ぐあッ!」
遠のく意識の中、思う。
次に気を失うのは、どうやら僕のようだ。
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優子ちゃんや春樹くんの話によると、近藤くんは溺れて気を失っていたあたしを助けようとしてくれたらしい。
それなのに、あたしが急に起き上がってしまったせいで…。
浜辺に立てたパラソルの下で、あたしは両膝を揃え、崩した正座のような姿勢で涼んでいる。
近藤くんの頭は、そんなあたしの太ももの上にあった。
「そのうち勝手に目を覚ますよ」
春樹くんはそう言って笑っていたけど、あたしは責任を感じてしまい、とても近藤くんを放って遊ぶ気になんてなれない。
近藤くんの寝顔は、なんだか無邪気な子供みたいで、男の子にこんなこと言っちゃいけないのかも知れないけど、可愛い。
茶色がかった短い髪を、少しだけ撫でてみた。
「あれ?」
近藤くんの左の肩に、傷のような跡があることに気づく。
正面や背中から見たら解らない角度だ。
これは確かに傷跡だった。
再び、幼かったあのときを思い出す。
風で飛ばされた帽子を取るために崖に上り、そこから落ちて左肩を怪我をしてしまった男の子…。
あたしの運命の人だった、なおくん。
近藤くんの下の名前は、直人…。
なおくん…。
「そんなまさか」
以前もなおくんイコール近藤くん説を勘ぐったことがあった。
あの時は冗談を思いついたような感覚だったけど、でも今は違う。
「んん~。…あれ? さっちゃん?」
近藤くんが目を覚ます。
「ご、ごめん! ずっと、その、膝枕、しててくれた…?」
「あ、ううん! こちらこそごめんね! あたしが勝手に溺れちゃっただけなのに」
「とんでもないよ!」
近藤くんが起き上がる。
「さっちゃんが無事でよかった~」
その笑顔は、間違いなく一緒だった。
幼少時代、あたしの帽子を取ってくれたときのなおくんの笑顔と、一緒だった。
「あの、近藤くん」
「ん? なに?」
「その肩って、怪我でもしたの?」
「あはは」
近藤くんは照れたように頭を掻いた。
「そうなんだ。子供の頃、崖から落ちてね」
「それって、何かを取りに登ったとかで?」
すると彼は目を丸くする。
「よく解ったね! なんで解ったの?」
間違いない。
この人だ。
この人、なおくん本人だったんだ。
あたしと将来を誓い合った、運命の人…。
…この一連のエピソードはハガキに書いて、いつものラジオ局に投稿しておこう。
誰にも話せない、あたしの秘密。
あの人に気づかれたら恥ずかしい。
でも、気づいてほしいから。
第3話「すれ違う想い」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/459/
------------------------------
参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
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2011
December 17
December 17
どうやら2回で、僕のプロポーズは成功したみたいだ。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
「なんか男らしくないー」
それならと、僕は僕なりに頭を捻る。
じゃあ、これならどうだろう?
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
あの頃は毎日のように遊んでいたっけ。
僕の初恋はとても早くて、当時はまだ3歳だった。
お相手は近所に住む同い年の子で、名前はさっちゃん。
黒いふわふわの髪が印象的な、明るい女の子だ。
マセているというか、あの時は子供ながらに相思相愛で、結婚の約束までしてたっけ。
「あたしが16歳になったら結婚しよー!」
「ダメだよ、さっちゃん。男は確か、18歳にならないと、結婚できないんだよ」
「じゃあ、なおくんが18歳になったらね!」
「うん!」
「いつなるの?」
「えっとね、えっとね、今3歳だから、ずっと先の3月!」
「どんぐらい先?」
「わかんない。18歳になったら!」
それで、近所の大桜の根元に2人で作った婚約指輪を埋めたんだった。
懐かしいなあ。
今もまだ埋まっているんだろうか。
さっちゃんは、元気にしてるかなあ。
------------------------------
なおくん、今頃どうしてるのかなあ。
凄くカッコよくなってたりして。
あの頃、あたしのせいで肩を大怪我しちゃってたけど、傷になってないかな。
女の子ってゆうのはどんなに幼くても女の子だ。
まだ3歳だったけど、あたしはそのときからお洒落するのが大好きで、いつもお気に入りの帽子を被っていた。
なおくんという同い年の男の子のことが大好きで、その帽子も彼のために身に付けていたものだ。
当時、あたしたちは両想いで、今となっては恥ずかしいんだけど、いつでも一緒にくっついて遊んでた。
公園なんかにも行ったし、近所の高校の裏に丘があって、そこでもちょくちょく探検ごっこしてたっけ。
桜の花びらがまるで大雪みたいに降ってて、凄く綺麗だった。
「あっ!」
突然吹いた風に、お気に入りの帽子が飛ばされる。
帽子はふわふわと空に上って、やがてゆっくりゆっくり、木の葉みたいに右に左にと揺られながら落ちてきた。
崖から突き出た岩に、ふわっと帽子が着地して、あたしは泣き出しそうになる。
大人でも手が届かないぐらいの高さに、帽子が引っかかってしまったからだ。
「ちょっと待ってて、さっちゃん」
なおくんが迷うことなく崖にしがみついた。
「いいよう! なおくん、誰か呼ぼうよう!」
「大丈夫! すぐ取るから待ってて!」
落ちたら死んじゃう!
なんて、今となっては有り得ない危機感を、その時は持ったものだ。
それでも当時は幼いながらも真剣に心配してて、あたしはずっと声を張り上げ続けた。
「もういいよう! なおくん! 降りてきてよう!」
「平気平気! 落ちるわけな…!」
そして彼は落ちた。
なおくんは帽子を取るときに手を伸ばしすぎたせいで、バランスを崩してしまったのだ。
なおくんの左肩から血が滲んでいるのを見て、あたしは帽子のことなんかどうでもよくなって、大泣きしながら大人の人を呼びに走り回った。
何針縫ったとかなんとか。
後日になって、親がお詫びのために、あたしと一緒になおくんの家まで行ったんだったなあ。
なおくんは怪我をしたにもかかわらず、いつも通りの笑顔で、「はいこれ!」って帽子を返してくれた。
あたしたちは絶対に結婚するんだって、お互い決めてて、それは運命なんだって当たり前のように思ってて…。
でも、そうじゃなかった。
あたしのパパが転勤することになって、この町を引っ越さなきゃいけなくなった。
「なおくん、ごめんね。ごめんね」
「やだ! さっちゃんが遠くに行っちゃうの、やだよ! いつか帰ってくる?」
「わかんない…」
「じゃあ僕が18歳になっても結婚できないじゃん! さっちゃんなんて、嫌いだ!」
「なおくん…」
あれが最後の大喧嘩だったなあ。
向かい合わせになった電車の席に座り、あたしはママの横でしょんぼりと下を向いていた。
この町を出ることなんかよりも、大好きななおくんにもう逢えないことと、そのなおくんに嫌われてしまったことが悲しくて悲しくて、とてもじゃないけど顔を上げることができなかった。
目を閉じると、今にもなおくんの声が聞こえてきそうな気がする。
「さっちゃーん!」
そう。
なおくんはいつもあたしの名を呼んでくれてた。
「さっちゃーん!」
よほどなおくんに逢いたいのか、錯覚の声が大きくなってきているような気がする。
「さっちゃーん!」
え?
本当に聞こえてる…?
車窓を押し上げ、身を乗り出す。
そこには、息を切らせたなおくんの姿が。
「なおくん!? なんで!?」
「さっちゃん、これ!」
なおくんが手渡してくれたのは、茶色いクマのぬいぐるみだ。
「プレゼント! 大事にしてね」
「なおくん…」
「また逢えるよね? それまで寂しいと思って、ぬいぐるみ」
「なおくん! 大好きだよ! また逢おうね! 絶対絶対逢おうね!」
「うん! 待ってるよ! 元気でね! …元気でね、さっちゃん!」
発車を知らせるベルがなって、やがて電車が進み始める。
なおくんは、電車の速度に合わせて駆け足になった。
あたしも座席から降りて、車内を進行方向とは逆に走り出す。
手を、大きく大きく振りながら。
あれから14年、かあ。
懐かしいなあ。
今になって彼のことを思い出す理由が、あたしにはあった。
「間もなく~、桜ヶ丘~、桜ヶ丘~」
またまたパパの都合で、あたしたち一家は元の町、この桜ヶ丘に戻ってくることになったのだ。
さすがに街並みは昔のままじゃない。
なおくんの家も、どの辺りなのか思い出せないし、すぐに見つかるとも思えない。
けど、逢えたらいいな。
なんてことを葉書に書き連ね、ポストに投函する。
これがラジオに採用されて、運命の人に聴いてもらえますようにと祈りを込めて。
あたし、帰ってきたよ、なおくん。
------------------------------
「ちょ、やめてくださいっ!」
「ああ~ん? いいじゃねえかよ~? ちょっと付き合えよ、ね~ちゃ~ん、コラァ~」
なんだか穏やかじゃない声を聞いたような気がして、反射的に僕はビルとビルの間を覗き込んだ。
思わず息を呑む。
女の子が、2人組の不良に絡まれているじゃないか!
「お茶しに行こうぜ~? カワイコちゃ~ん。あっあ~ん?」
「やめてください! は、離して…!」
女の子は壁に背を付けていて、2人がそれに覆いかぶさるような体勢になっている。
不良の片方が彼女のメガネを取って地面に放る。
「ちょ…! なにするんですか!?」
「言うこと聞かねえと、もっと酷いぜ~? コラァ~」
は、早く止めに入らないと!
僕は震える足をガクガクさせながら前に出した。
「や、やめなよ! 嫌がってるじゃないか!」
「ああ~ん?」
不良たちが僕に注目する。
このままどうにか2人をおびき寄せて、女の子が逃げられるようにしないと…!
僕はごくりとツバを飲んだ。
「嫌がってるのを無理矢理連れて行くのは、よくないよ」
「なんだあ? テメー、生意気じゃねえかコラァ!」
「ぶっ飛ばすぞコラァ!」
胸ぐらを掴まれ、壁に押し付けられる。
横目をやると、女の子は胸の前で手を組みながら、その場でおろおろと佇んでいる。
なにやってんだ!
そのままどっかに逃げてくれ!
「テメー! よそ見してんじゃねえぞコラァ!」
僕を壁に押し付けている男が拳を振り上げた。
ばきっ!
という音が頭の中に響いて、僕は地面に尻餅を付く。
「いてて…」
「カッコ付けてっからそういう目に合うんだコラァ!」
「西高の風神テツと雷神カズをナメんじゃねえぞコラァ!」
そのとき、「ピー!」と甲高い高音が鳴り響く。
「こらー! お前ら、そこで何やってる!?」
お巡りさんだ!
助かった!
不良たちがうろたえる。
「やっべえ! ポリ公だ!」
「お、覚えてやがれ!」
警察官に追われ、不良たちはどこかに走り去っていった。
「あの…」
胸の前で手を組んだまま、女の子がこちらに歩み寄ってくる。
彼女はハンカチを取り出すと、それをおずおずと僕に差し出してくれた。
「痛い、ですよね? すみませんすみません」
「いやいや、僕は大丈夫。それより、君は? 乱暴なこと、されなかった?」
「あ、あたしは大丈夫です」
「そっか、ならよかった…」
女の子を見ると、彼女はさっき外されたメガネを拾ったらしい。
いつの間にか分厚くてまん丸なメガネをかけている。
かなり目が悪いようだ。
「痛く、ないですか?」
「大丈夫大丈夫!」
差し出されたハンカチで僕は口元を拭い、よろよろと立ち上がる。
「あの、ありがとう、ございました」
うつむいたまま、彼女は小声でそう言った。
自分のせいで僕が殴られてしまったのだと、責任を感じているんだろう。
暗い声色だった。
「大丈夫だよ、僕は。あ、ごめん。ハンカチ、汚しちゃったね。洗って返すよ」
「いえ! 大丈夫です!」
あまりに強く言い切られてしまい、ついハンカチをそのまま返す。
じわじわと、危機が去ったことを実感した。
なんだか安心してしまい、僕は思わず本音を口にする。
「無事に済んでよかった。…けど、怖かった~」
その一言に彼女はクスリと笑い、やがて僕らは2人で大笑いした。
------------------------------
「あの、お名前、教えてください」
訪ねると彼は、
「いやいや、そんな! 名乗るほどの者じゃないよ! たいしたことできなかったしね」
そう遠慮して、そそくさとどこかに行ってしまった。
「あ、待ってくだ…!」
しかし言うのが遅くて、彼の後ろ姿はあっという間に雑踏へと消えた。
「なんでもっとちゃんとお礼言えなかったのよ~! あたしのばか~! …あれ?」
さっき彼が転んでいたところに、何か落ちてる。
なんだろう?
拾い上げてみる。
それは生徒手帳だった。
手帳には見覚えがある。
あたしと同じ、桜ヶ丘学園の生徒手帳だからだ。
彼のかも知れないと思って中を開くと、案の定。
優しげな目をしたあの人が写っている。
「近藤、直人…?」
まさかね。
あの人が実はなおくんだった、なんて話が出来すぎてる。
あたしはクスリと笑って、歩き出す。
手帳にある住所に向かって、さっきのヒーローに落し物を届けるために。
------------------------------
生徒手帳を届けてくれた彼女は畑中早苗と名乗った。
「わざわざ、ありがとう」
「いえ、とんでもないです!」
彼女はあたふたと両手をバタバタ降って、その振動でズレたメガネを慌ててかけ直す。
「助けてもらったのに、ちゃんとお礼できなくてすみません!」
「そんな! 気にしないでよ。なんだか僕のほうが恐縮しちゃうからね」
「あ、はい! そうですよね!? すみません!」
「いやいやいやいや」
「じゃああたし、これで失礼しますっ! さっきは本当にありがとうございました!」
ガバッと勢い良くおじぎをして振り返ると、そのまま走って、彼女は行ってしまった。
とっても慌ただしい子だなあ、とその時は思ったものだ。
本来ならこの縁はここで終わるんだろうけど、でもそうじゃなかった。
2年生の秋。
印象的なメガネを廊下で見かけ、ふと立ち止まる。
「あ、あの時の…」
廊下で同時に口をポカンと開け、しばらく2人とも固まってたっけ。
「桜ヶ丘の生徒だったんだ」
と、僕。
すぐ隣の教室に畑中さんがいたことを、当時の僕は知らなかったのだ。
「あたし、転校してきたばかりなんです」
「あ、そうだったんだね」
廊下の真ん中で彼女は指をもじもじと絡ませ、うつむいていた。
そんな時、次の授業を知らせるチャイムの音が。
「あ、教室に戻ら…、きゃあ!」
焦って急ぎ足になったからなのか、彼女は何もない床につまずいて転んだ。
その反動で、畑中さんのメガネが落ちる。
「大丈夫!?」
手を貸すために、僕はしゃがみ込んだ。
「ありがとう」
その目を見て、胸が激しく高鳴る。
こんなに可愛らしい目をしていたなんて、メガネが厚いせいでちっとも知らなかった。
彼女の綺麗な瞳が真っ直ぐ僕に向けられている。
「あの、あたしの、メガネ…」
「え!? あ、ああ! あそこだ! はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
人前で転んでしまったことが恥ずかしかったのか、彼女はそのまま教室へと駆け込んで行く。
僕はポカンとその場に取り残された。
畑中早苗さん、か…。
ふと、初恋の人が頭をよぎる。
さっちゃんの「さ」は、早苗の「さ」…?
なんて、まさかね。
そんな上手い話、あるわけがない。
僕は苦笑いをしながら自分の教室へと戻る。
第2話「募る想い」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
「なんか男らしくないー」
それならと、僕は僕なりに頭を捻る。
じゃあ、これならどうだろう?
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
あの頃は毎日のように遊んでいたっけ。
僕の初恋はとても早くて、当時はまだ3歳だった。
お相手は近所に住む同い年の子で、名前はさっちゃん。
黒いふわふわの髪が印象的な、明るい女の子だ。
マセているというか、あの時は子供ながらに相思相愛で、結婚の約束までしてたっけ。
「あたしが16歳になったら結婚しよー!」
「ダメだよ、さっちゃん。男は確か、18歳にならないと、結婚できないんだよ」
「じゃあ、なおくんが18歳になったらね!」
「うん!」
「いつなるの?」
「えっとね、えっとね、今3歳だから、ずっと先の3月!」
「どんぐらい先?」
「わかんない。18歳になったら!」
それで、近所の大桜の根元に2人で作った婚約指輪を埋めたんだった。
懐かしいなあ。
今もまだ埋まっているんだろうか。
さっちゃんは、元気にしてるかなあ。
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なおくん、今頃どうしてるのかなあ。
凄くカッコよくなってたりして。
あの頃、あたしのせいで肩を大怪我しちゃってたけど、傷になってないかな。
女の子ってゆうのはどんなに幼くても女の子だ。
まだ3歳だったけど、あたしはそのときからお洒落するのが大好きで、いつもお気に入りの帽子を被っていた。
なおくんという同い年の男の子のことが大好きで、その帽子も彼のために身に付けていたものだ。
当時、あたしたちは両想いで、今となっては恥ずかしいんだけど、いつでも一緒にくっついて遊んでた。
公園なんかにも行ったし、近所の高校の裏に丘があって、そこでもちょくちょく探検ごっこしてたっけ。
桜の花びらがまるで大雪みたいに降ってて、凄く綺麗だった。
「あっ!」
突然吹いた風に、お気に入りの帽子が飛ばされる。
帽子はふわふわと空に上って、やがてゆっくりゆっくり、木の葉みたいに右に左にと揺られながら落ちてきた。
崖から突き出た岩に、ふわっと帽子が着地して、あたしは泣き出しそうになる。
大人でも手が届かないぐらいの高さに、帽子が引っかかってしまったからだ。
「ちょっと待ってて、さっちゃん」
なおくんが迷うことなく崖にしがみついた。
「いいよう! なおくん、誰か呼ぼうよう!」
「大丈夫! すぐ取るから待ってて!」
落ちたら死んじゃう!
なんて、今となっては有り得ない危機感を、その時は持ったものだ。
それでも当時は幼いながらも真剣に心配してて、あたしはずっと声を張り上げ続けた。
「もういいよう! なおくん! 降りてきてよう!」
「平気平気! 落ちるわけな…!」
そして彼は落ちた。
なおくんは帽子を取るときに手を伸ばしすぎたせいで、バランスを崩してしまったのだ。
なおくんの左肩から血が滲んでいるのを見て、あたしは帽子のことなんかどうでもよくなって、大泣きしながら大人の人を呼びに走り回った。
何針縫ったとかなんとか。
後日になって、親がお詫びのために、あたしと一緒になおくんの家まで行ったんだったなあ。
なおくんは怪我をしたにもかかわらず、いつも通りの笑顔で、「はいこれ!」って帽子を返してくれた。
あたしたちは絶対に結婚するんだって、お互い決めてて、それは運命なんだって当たり前のように思ってて…。
でも、そうじゃなかった。
あたしのパパが転勤することになって、この町を引っ越さなきゃいけなくなった。
「なおくん、ごめんね。ごめんね」
「やだ! さっちゃんが遠くに行っちゃうの、やだよ! いつか帰ってくる?」
「わかんない…」
「じゃあ僕が18歳になっても結婚できないじゃん! さっちゃんなんて、嫌いだ!」
「なおくん…」
あれが最後の大喧嘩だったなあ。
向かい合わせになった電車の席に座り、あたしはママの横でしょんぼりと下を向いていた。
この町を出ることなんかよりも、大好きななおくんにもう逢えないことと、そのなおくんに嫌われてしまったことが悲しくて悲しくて、とてもじゃないけど顔を上げることができなかった。
目を閉じると、今にもなおくんの声が聞こえてきそうな気がする。
「さっちゃーん!」
そう。
なおくんはいつもあたしの名を呼んでくれてた。
「さっちゃーん!」
よほどなおくんに逢いたいのか、錯覚の声が大きくなってきているような気がする。
「さっちゃーん!」
え?
本当に聞こえてる…?
車窓を押し上げ、身を乗り出す。
そこには、息を切らせたなおくんの姿が。
「なおくん!? なんで!?」
「さっちゃん、これ!」
なおくんが手渡してくれたのは、茶色いクマのぬいぐるみだ。
「プレゼント! 大事にしてね」
「なおくん…」
「また逢えるよね? それまで寂しいと思って、ぬいぐるみ」
「なおくん! 大好きだよ! また逢おうね! 絶対絶対逢おうね!」
「うん! 待ってるよ! 元気でね! …元気でね、さっちゃん!」
発車を知らせるベルがなって、やがて電車が進み始める。
なおくんは、電車の速度に合わせて駆け足になった。
あたしも座席から降りて、車内を進行方向とは逆に走り出す。
手を、大きく大きく振りながら。
あれから14年、かあ。
懐かしいなあ。
今になって彼のことを思い出す理由が、あたしにはあった。
「間もなく~、桜ヶ丘~、桜ヶ丘~」
またまたパパの都合で、あたしたち一家は元の町、この桜ヶ丘に戻ってくることになったのだ。
さすがに街並みは昔のままじゃない。
なおくんの家も、どの辺りなのか思い出せないし、すぐに見つかるとも思えない。
けど、逢えたらいいな。
なんてことを葉書に書き連ね、ポストに投函する。
これがラジオに採用されて、運命の人に聴いてもらえますようにと祈りを込めて。
あたし、帰ってきたよ、なおくん。
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「ちょ、やめてくださいっ!」
「ああ~ん? いいじゃねえかよ~? ちょっと付き合えよ、ね~ちゃ~ん、コラァ~」
なんだか穏やかじゃない声を聞いたような気がして、反射的に僕はビルとビルの間を覗き込んだ。
思わず息を呑む。
女の子が、2人組の不良に絡まれているじゃないか!
「お茶しに行こうぜ~? カワイコちゃ~ん。あっあ~ん?」
「やめてください! は、離して…!」
女の子は壁に背を付けていて、2人がそれに覆いかぶさるような体勢になっている。
不良の片方が彼女のメガネを取って地面に放る。
「ちょ…! なにするんですか!?」
「言うこと聞かねえと、もっと酷いぜ~? コラァ~」
は、早く止めに入らないと!
僕は震える足をガクガクさせながら前に出した。
「や、やめなよ! 嫌がってるじゃないか!」
「ああ~ん?」
不良たちが僕に注目する。
このままどうにか2人をおびき寄せて、女の子が逃げられるようにしないと…!
僕はごくりとツバを飲んだ。
「嫌がってるのを無理矢理連れて行くのは、よくないよ」
「なんだあ? テメー、生意気じゃねえかコラァ!」
「ぶっ飛ばすぞコラァ!」
胸ぐらを掴まれ、壁に押し付けられる。
横目をやると、女の子は胸の前で手を組みながら、その場でおろおろと佇んでいる。
なにやってんだ!
そのままどっかに逃げてくれ!
「テメー! よそ見してんじゃねえぞコラァ!」
僕を壁に押し付けている男が拳を振り上げた。
ばきっ!
という音が頭の中に響いて、僕は地面に尻餅を付く。
「いてて…」
「カッコ付けてっからそういう目に合うんだコラァ!」
「西高の風神テツと雷神カズをナメんじゃねえぞコラァ!」
そのとき、「ピー!」と甲高い高音が鳴り響く。
「こらー! お前ら、そこで何やってる!?」
お巡りさんだ!
助かった!
不良たちがうろたえる。
「やっべえ! ポリ公だ!」
「お、覚えてやがれ!」
警察官に追われ、不良たちはどこかに走り去っていった。
「あの…」
胸の前で手を組んだまま、女の子がこちらに歩み寄ってくる。
彼女はハンカチを取り出すと、それをおずおずと僕に差し出してくれた。
「痛い、ですよね? すみませんすみません」
「いやいや、僕は大丈夫。それより、君は? 乱暴なこと、されなかった?」
「あ、あたしは大丈夫です」
「そっか、ならよかった…」
女の子を見ると、彼女はさっき外されたメガネを拾ったらしい。
いつの間にか分厚くてまん丸なメガネをかけている。
かなり目が悪いようだ。
「痛く、ないですか?」
「大丈夫大丈夫!」
差し出されたハンカチで僕は口元を拭い、よろよろと立ち上がる。
「あの、ありがとう、ございました」
うつむいたまま、彼女は小声でそう言った。
自分のせいで僕が殴られてしまったのだと、責任を感じているんだろう。
暗い声色だった。
「大丈夫だよ、僕は。あ、ごめん。ハンカチ、汚しちゃったね。洗って返すよ」
「いえ! 大丈夫です!」
あまりに強く言い切られてしまい、ついハンカチをそのまま返す。
じわじわと、危機が去ったことを実感した。
なんだか安心してしまい、僕は思わず本音を口にする。
「無事に済んでよかった。…けど、怖かった~」
その一言に彼女はクスリと笑い、やがて僕らは2人で大笑いした。
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「あの、お名前、教えてください」
訪ねると彼は、
「いやいや、そんな! 名乗るほどの者じゃないよ! たいしたことできなかったしね」
そう遠慮して、そそくさとどこかに行ってしまった。
「あ、待ってくだ…!」
しかし言うのが遅くて、彼の後ろ姿はあっという間に雑踏へと消えた。
「なんでもっとちゃんとお礼言えなかったのよ~! あたしのばか~! …あれ?」
さっき彼が転んでいたところに、何か落ちてる。
なんだろう?
拾い上げてみる。
それは生徒手帳だった。
手帳には見覚えがある。
あたしと同じ、桜ヶ丘学園の生徒手帳だからだ。
彼のかも知れないと思って中を開くと、案の定。
優しげな目をしたあの人が写っている。
「近藤、直人…?」
まさかね。
あの人が実はなおくんだった、なんて話が出来すぎてる。
あたしはクスリと笑って、歩き出す。
手帳にある住所に向かって、さっきのヒーローに落し物を届けるために。
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生徒手帳を届けてくれた彼女は畑中早苗と名乗った。
「わざわざ、ありがとう」
「いえ、とんでもないです!」
彼女はあたふたと両手をバタバタ降って、その振動でズレたメガネを慌ててかけ直す。
「助けてもらったのに、ちゃんとお礼できなくてすみません!」
「そんな! 気にしないでよ。なんだか僕のほうが恐縮しちゃうからね」
「あ、はい! そうですよね!? すみません!」
「いやいやいやいや」
「じゃああたし、これで失礼しますっ! さっきは本当にありがとうございました!」
ガバッと勢い良くおじぎをして振り返ると、そのまま走って、彼女は行ってしまった。
とっても慌ただしい子だなあ、とその時は思ったものだ。
本来ならこの縁はここで終わるんだろうけど、でもそうじゃなかった。
2年生の秋。
印象的なメガネを廊下で見かけ、ふと立ち止まる。
「あ、あの時の…」
廊下で同時に口をポカンと開け、しばらく2人とも固まってたっけ。
「桜ヶ丘の生徒だったんだ」
と、僕。
すぐ隣の教室に畑中さんがいたことを、当時の僕は知らなかったのだ。
「あたし、転校してきたばかりなんです」
「あ、そうだったんだね」
廊下の真ん中で彼女は指をもじもじと絡ませ、うつむいていた。
そんな時、次の授業を知らせるチャイムの音が。
「あ、教室に戻ら…、きゃあ!」
焦って急ぎ足になったからなのか、彼女は何もない床につまずいて転んだ。
その反動で、畑中さんのメガネが落ちる。
「大丈夫!?」
手を貸すために、僕はしゃがみ込んだ。
「ありがとう」
その目を見て、胸が激しく高鳴る。
こんなに可愛らしい目をしていたなんて、メガネが厚いせいでちっとも知らなかった。
彼女の綺麗な瞳が真っ直ぐ僕に向けられている。
「あの、あたしの、メガネ…」
「え!? あ、ああ! あそこだ! はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
人前で転んでしまったことが恥ずかしかったのか、彼女はそのまま教室へと駆け込んで行く。
僕はポカンとその場に取り残された。
畑中早苗さん、か…。
ふと、初恋の人が頭をよぎる。
さっちゃんの「さ」は、早苗の「さ」…?
なんて、まさかね。
そんな上手い話、あるわけがない。
僕は苦笑いをしながら自分の教室へと戻る。
第2話「募る想い」に続く。
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2011
November 10
November 10
さすが鬼才。
猫語でメールを返してくるとは思わなかった。
以前、かなり王道感たっぷりのベタを楽しむ物語を書いて、俺はそれをボイスドラマに仕立て上げたいと考えている。
なんだかんだと色々あって遅れてはいたけれど、その遅延のせいで連絡がつかなくなってしまった協力者もいるけれど、ようやくボイスドラマ作成の準備が整った。
完成品を思い浮かべてはニヤニヤと薄気味悪い顔をしている毎日だ。
さて、ボイスドラマというからには声優さんの存在が必要不可欠なのだが、俺は彼らを素人さんの中から募った。
そんな中、絶妙なセンスで驚愕せざるを得ない絵を描きなさる鬼才、めごさんが驚くべき発案をしたのである。
「猫の大五郎の役をやりたいです」
かくして俺は、効果音で充分なことを、わざわざ人でやることに。
俺はメールを打った。
「なんだか遅くなってしまったけれど、いよいよボイスドラマ作成に取りかかるよん。めごさん、マジで猫の役やってもらっていいの?」
「にゃにゃにゃー。にゃんにゃにゃーい! にゃにゃ」
うむ、そうか。
取り合えず意味が解らないということが解った。
でもまあ猫に成りきっているということは、猫役への熱意を感じさせるし、引き受けてもらえたと解釈しようかな。
「じゃあ収録はスカイプが俺ン家、どっちにする?」
「にゃいにゃい。にゃんにゃ。…ザキ」
説明しよう。
ザキとは、某有名RPGゲームに登場する呪文で、敵単体を即死させる効果がある。
どうして俺に唱えられたのかは解らない。
「取り合えず殺意だけ感じました」
「あのね、今は箱根の山に住んでいるので収録できまてん。仙人になってしまえー」
初めて来た人間語での返信にホッとしたが、今なんて?
何があれば山に住まうなんていうマタギみたいな話に発展するのだ、この人は。
どうして山住まいの人から仙人への転職を勧められたのだ、俺は。
「箱根の山!? 仙人になるのは君じゃないか!」
「あ、ホントだね。仙人の役があるなら言ってくださいな」
そんな役ねえよ。
なんで青春恋愛ドラマに仙人出さなきゃならんのよ。
まあいいや。
ツッコミ入れるのは日記の中でにしよう。
「了解。仙人役が必要になったらまたメールしる。あと今日のやり取り、日記に書いてもいい?」
「どうぞー。立派な仙人になって、本気ザキをお見舞いするね。きゃは」
きゃはじゃない。
本気のザキをお見舞いするって、出るとこ出たら殺意を立証できるんじゃないか?
このメールに俺がどのような感想を覚えたか。
それはこの日記のタイトルの通りだ。
猫語でメールを返してくるとは思わなかった。
以前、かなり王道感たっぷりのベタを楽しむ物語を書いて、俺はそれをボイスドラマに仕立て上げたいと考えている。
なんだかんだと色々あって遅れてはいたけれど、その遅延のせいで連絡がつかなくなってしまった協力者もいるけれど、ようやくボイスドラマ作成の準備が整った。
完成品を思い浮かべてはニヤニヤと薄気味悪い顔をしている毎日だ。
さて、ボイスドラマというからには声優さんの存在が必要不可欠なのだが、俺は彼らを素人さんの中から募った。
そんな中、絶妙なセンスで驚愕せざるを得ない絵を描きなさる鬼才、めごさんが驚くべき発案をしたのである。
「猫の大五郎の役をやりたいです」
かくして俺は、効果音で充分なことを、わざわざ人でやることに。
俺はメールを打った。
「なんだか遅くなってしまったけれど、いよいよボイスドラマ作成に取りかかるよん。めごさん、マジで猫の役やってもらっていいの?」
「にゃにゃにゃー。にゃんにゃにゃーい! にゃにゃ」
うむ、そうか。
取り合えず意味が解らないということが解った。
でもまあ猫に成りきっているということは、猫役への熱意を感じさせるし、引き受けてもらえたと解釈しようかな。
「じゃあ収録はスカイプが俺ン家、どっちにする?」
「にゃいにゃい。にゃんにゃ。…ザキ」
説明しよう。
ザキとは、某有名RPGゲームに登場する呪文で、敵単体を即死させる効果がある。
どうして俺に唱えられたのかは解らない。
「取り合えず殺意だけ感じました」
「あのね、今は箱根の山に住んでいるので収録できまてん。仙人になってしまえー」
初めて来た人間語での返信にホッとしたが、今なんて?
何があれば山に住まうなんていうマタギみたいな話に発展するのだ、この人は。
どうして山住まいの人から仙人への転職を勧められたのだ、俺は。
「箱根の山!? 仙人になるのは君じゃないか!」
「あ、ホントだね。仙人の役があるなら言ってくださいな」
そんな役ねえよ。
なんで青春恋愛ドラマに仙人出さなきゃならんのよ。
まあいいや。
ツッコミ入れるのは日記の中でにしよう。
「了解。仙人役が必要になったらまたメールしる。あと今日のやり取り、日記に書いてもいい?」
「どうぞー。立派な仙人になって、本気ザキをお見舞いするね。きゃは」
きゃはじゃない。
本気のザキをお見舞いするって、出るとこ出たら殺意を立証できるんじゃないか?
このメールに俺がどのような感想を覚えたか。
それはこの日記のタイトルの通りだ。
2011
October 09
October 09
皆さんは、現役の女子プロレスラーの人にひっぱたかれたことがあるだろうか?
もし「ある」と言う人がいたら、この言葉を捧げよう。
お前は俺か。
職場のスナックにかの有名な女子プロレスラー豊田真奈美さんが手伝ってくれていることは以前に書いた通りだ。
真奈美さんのおかげで、うちの店に女子プロレスラーの面々が飲みに来てくれるようになっている。
先日など、6人もの猛者たちが来店され、山賊の宴を彷彿させる飲み方をされていた。
「お兄ちゃん!」
俺を呼び止めたレスラーの名は、ここでは仮に「ゴンザレス高橋リーサルウェポン」とさせていただこう。
ゴンザレス高橋リーサルウェポンさんに呼び止められた。
「はい?」
返事をしたと同時に俺の顔面を平手が襲う。
バシ!
という炸裂音を近くに聞いた。
なんで殴られたの俺?
後になって思えば、ゴンザレス高橋リーサルウェポンさんはリング上でよく見られる平手の応酬を、何故か店内で再現したくなっちゃったのであろう。
体育会系に酒を飲ませると、星を取ったスーパーマリオのようになるから困ったもんだ。
そんなゴンザレス高橋リーサルウェポンさんに誰かが「めさは空手の有段者で素人じゃないから殴っても大丈夫」などと勝手なことを吹き込んだに違いない。
それにしても、なんの前触れもなく殴られるなんて展開、読るわけがない。
普通、女の人が男をひっぱたくときっていうのは恋が始まるときか終わるときだ。
それがこのゴンザレスのビンタときたら、なんの色気もない。
ゴンザレス高橋リーサルウェポンさんは俺に頬を突き出し、ジェスチャーで「ほら、やり返せ」と示す。
水商売は短くないが、ここまでの無茶振りは初めてだ。
いくら相手が現役のプロレスラーで、しかも本人が「あたしを殴れ」と命じたからといって、女の人をひっぱたけるわけがない。
尚も殴られる体制を取っているゴンザレス高橋リーサルウェポンさんの頬を、俺は「えいっ」と語尾にハートマークを付けながら、指でツンと突ついて誤魔化した。
「そうじゃない!」
ゴンザレス高橋リーサルウェポンが怒り出す。
殴らなかったから怒られるなんて体験、初めてだ。
「そうじゃなくて、こうだぁ!」
バシイ!
と、再び殴られる。
さっさとカウンターの中に逃げ込んでしまいたかったが、あまりにも重い平手打ちに軽い脳震盪を起こし、足にきちゃっているので動けない。
「さあ、こい!」
再び顔を突き出すゴンザレス高橋リーサルウェポンさん。
やはり手を上げられないので指で軽く突く。
そうじゃないとまた殴られる。
そんなループを5回ほど繰り返した。
我ながら思う。
俺、ドMでよかった。
もし「ある」と言う人がいたら、この言葉を捧げよう。
お前は俺か。
職場のスナックにかの有名な女子プロレスラー豊田真奈美さんが手伝ってくれていることは以前に書いた通りだ。
真奈美さんのおかげで、うちの店に女子プロレスラーの面々が飲みに来てくれるようになっている。
先日など、6人もの猛者たちが来店され、山賊の宴を彷彿させる飲み方をされていた。
「お兄ちゃん!」
俺を呼び止めたレスラーの名は、ここでは仮に「ゴンザレス高橋リーサルウェポン」とさせていただこう。
ゴンザレス高橋リーサルウェポンさんに呼び止められた。
「はい?」
返事をしたと同時に俺の顔面を平手が襲う。
バシ!
という炸裂音を近くに聞いた。
なんで殴られたの俺?
後になって思えば、ゴンザレス高橋リーサルウェポンさんはリング上でよく見られる平手の応酬を、何故か店内で再現したくなっちゃったのであろう。
体育会系に酒を飲ませると、星を取ったスーパーマリオのようになるから困ったもんだ。
そんなゴンザレス高橋リーサルウェポンさんに誰かが「めさは空手の有段者で素人じゃないから殴っても大丈夫」などと勝手なことを吹き込んだに違いない。
それにしても、なんの前触れもなく殴られるなんて展開、読るわけがない。
普通、女の人が男をひっぱたくときっていうのは恋が始まるときか終わるときだ。
それがこのゴンザレスのビンタときたら、なんの色気もない。
ゴンザレス高橋リーサルウェポンさんは俺に頬を突き出し、ジェスチャーで「ほら、やり返せ」と示す。
水商売は短くないが、ここまでの無茶振りは初めてだ。
いくら相手が現役のプロレスラーで、しかも本人が「あたしを殴れ」と命じたからといって、女の人をひっぱたけるわけがない。
尚も殴られる体制を取っているゴンザレス高橋リーサルウェポンさんの頬を、俺は「えいっ」と語尾にハートマークを付けながら、指でツンと突ついて誤魔化した。
「そうじゃない!」
ゴンザレス高橋リーサルウェポンが怒り出す。
殴らなかったから怒られるなんて体験、初めてだ。
「そうじゃなくて、こうだぁ!」
バシイ!
と、再び殴られる。
さっさとカウンターの中に逃げ込んでしまいたかったが、あまりにも重い平手打ちに軽い脳震盪を起こし、足にきちゃっているので動けない。
「さあ、こい!」
再び顔を突き出すゴンザレス高橋リーサルウェポンさん。
やはり手を上げられないので指で軽く突く。
そうじゃないとまた殴られる。
そんなループを5回ほど繰り返した。
我ながら思う。
俺、ドMでよかった。
2011
September 16
September 16
ハイキングに行ったのだが新鮮味がなかったと、お客さんは言う。
子供の頃から何度も行っている場所がハイキングコースであったため、感動がなかったのだそうだ。
「へえ。ちなみにどこに行かれたんですか?」
訊くと、痩せ型の中年男性がグラスを持ったまま「三渓園」と答えた。
さんけいえんって、どこそれ。
キツい、汚い、危険な炎?
いやちげーよ。
3K炎じゃねえよ。
自問自答するよりも訊ねたほうが早い。
俺はお客さんに恐る恐る疑問を口にした。
「あのう、勉強不足ですみません。さんけいえんって何県ですか?」
この日もスナック「スマイル」は閑散としていて、我ながら職場の行く末が心配になる、そんないつもの夜のことだった。
お客さんは尚もグラスを持ったままで、氷固まる。
「めさ君、横浜出身じゃないの!?」
「ええ。生まれも育ちもこの街ですよ?」
「それで三渓園知らないの!?」
どこに住んでいても知らないものは知らないので、正直に「知らないですね」と胸を張った。
「それは話にならない!」
お客さんの言いようはまるで、「こいつ人知を超えた銀河系馬鹿だ!」とでも言いたそうな様子だ。
だけれども、今までたまたま見聞きしなかったことを知っていることのほうがおかしいじゃないか。
「もの凄い確率で、僕が生まれてから今日までずっと、誰も三渓園については触れてきませんでしたね」
「めさ君、それはね! 横浜に住んでて山下公園を知らないのと一緒だよ!」
要するに、日本に住んでて富士山を知らないのと同じようなものらしい。
でも、知らないもんは知らんもの。
なんで俺が怒られるのよ。
携帯電話を取り出し、密かに「さんけいえんってどんな字?」と、俺は仲間に訊いた。
調べてみると、意外や意外。
すぐにでも行けるような近場にそれはあって、画像には五重の塔やお寺のような日本的な建築物。
それらは自然と調和していて、カメラマンの腕も良いのだろうがすこぶる美しく写っている。
秋には紅葉も楽しめるのだそうだ。
「これはいい! いいこと知った! 俺今度ここ行ってきますよ!」
喜んでいると、お客さんは呆れたように「横浜出身で三渓園知らないなんてありえない」と現実を認めようとしない。
「まあまあお客さん、そう言わずに。僕が三渓園を知らなかったのは過去のことです。でも今はもう知っちゃったもん。なのでなので、この店に三渓園を知らない従業員は1人もいなくなりました」
「そういう問題じゃない!」
「さようなら、三渓園を知らなかった自分。こんにちは、三渓園を知った自分」
「誤魔化せてないよ!」
そうこうしていると、遅出のフロアレディCちゃんが出勤してきて、今日も元気に「おはようございまーす」といい笑顔を見せる。
そんな彼女を、俺は呼び止めた。
「おはようCちゃん。あのさ、Cちゃんもさ、横浜生まれだよね?」
「ええ、そうでーす! 育ちも横浜ー!」
「だよね? でさ、Cちゃん。三渓園って知ってる?」
「知ってますよー。ってゆうか横浜に住んでて三渓園知らない人なんて、いないんじゃないですか?」
「え!? あ、ああ! そ、そそそ、そうだよね!? ですよねえ! あの三渓園を知らない奴なんているわけないよね!? そんなんありえないありえない! 横浜に生まれて三渓園を知らないなんて、山下公園を知らないのと一緒!」
「どうしたんですか? めささん、口数いつもより多い~」
「そんなこたァないっ! でもこれは日記に書くからいずれバレるな…」
「え? 今なんて~?」
「いやこっちの話!」
実に嫌な汗をかいた。
話題は変わり、先ほどのお客さんが気分良さげに言う。
「めさ君はブログとかやってるけど、僕ぁね、検索して調べるためにネットを使うんだよね」
「ネットって便利ですもんね。お客さんほどじゃないですけど、僕もたまに検索しますよ。三渓園とか」
「横浜に生まれて三渓園を知らないなんて本当に信じられない!」
いっけね。
ぶり返しちゃった。
どんまい俺!
三渓園には、今度行ってみようと思います。
子供の頃から何度も行っている場所がハイキングコースであったため、感動がなかったのだそうだ。
「へえ。ちなみにどこに行かれたんですか?」
訊くと、痩せ型の中年男性がグラスを持ったまま「三渓園」と答えた。
さんけいえんって、どこそれ。
キツい、汚い、危険な炎?
いやちげーよ。
3K炎じゃねえよ。
自問自答するよりも訊ねたほうが早い。
俺はお客さんに恐る恐る疑問を口にした。
「あのう、勉強不足ですみません。さんけいえんって何県ですか?」
この日もスナック「スマイル」は閑散としていて、我ながら職場の行く末が心配になる、そんないつもの夜のことだった。
お客さんは尚もグラスを持ったままで、氷固まる。
「めさ君、横浜出身じゃないの!?」
「ええ。生まれも育ちもこの街ですよ?」
「それで三渓園知らないの!?」
どこに住んでいても知らないものは知らないので、正直に「知らないですね」と胸を張った。
「それは話にならない!」
お客さんの言いようはまるで、「こいつ人知を超えた銀河系馬鹿だ!」とでも言いたそうな様子だ。
だけれども、今までたまたま見聞きしなかったことを知っていることのほうがおかしいじゃないか。
「もの凄い確率で、僕が生まれてから今日までずっと、誰も三渓園については触れてきませんでしたね」
「めさ君、それはね! 横浜に住んでて山下公園を知らないのと一緒だよ!」
要するに、日本に住んでて富士山を知らないのと同じようなものらしい。
でも、知らないもんは知らんもの。
なんで俺が怒られるのよ。
携帯電話を取り出し、密かに「さんけいえんってどんな字?」と、俺は仲間に訊いた。
調べてみると、意外や意外。
すぐにでも行けるような近場にそれはあって、画像には五重の塔やお寺のような日本的な建築物。
それらは自然と調和していて、カメラマンの腕も良いのだろうがすこぶる美しく写っている。
秋には紅葉も楽しめるのだそうだ。
「これはいい! いいこと知った! 俺今度ここ行ってきますよ!」
喜んでいると、お客さんは呆れたように「横浜出身で三渓園知らないなんてありえない」と現実を認めようとしない。
「まあまあお客さん、そう言わずに。僕が三渓園を知らなかったのは過去のことです。でも今はもう知っちゃったもん。なのでなので、この店に三渓園を知らない従業員は1人もいなくなりました」
「そういう問題じゃない!」
「さようなら、三渓園を知らなかった自分。こんにちは、三渓園を知った自分」
「誤魔化せてないよ!」
そうこうしていると、遅出のフロアレディCちゃんが出勤してきて、今日も元気に「おはようございまーす」といい笑顔を見せる。
そんな彼女を、俺は呼び止めた。
「おはようCちゃん。あのさ、Cちゃんもさ、横浜生まれだよね?」
「ええ、そうでーす! 育ちも横浜ー!」
「だよね? でさ、Cちゃん。三渓園って知ってる?」
「知ってますよー。ってゆうか横浜に住んでて三渓園知らない人なんて、いないんじゃないですか?」
「え!? あ、ああ! そ、そそそ、そうだよね!? ですよねえ! あの三渓園を知らない奴なんているわけないよね!? そんなんありえないありえない! 横浜に生まれて三渓園を知らないなんて、山下公園を知らないのと一緒!」
「どうしたんですか? めささん、口数いつもより多い~」
「そんなこたァないっ! でもこれは日記に書くからいずれバレるな…」
「え? 今なんて~?」
「いやこっちの話!」
実に嫌な汗をかいた。
話題は変わり、先ほどのお客さんが気分良さげに言う。
「めさ君はブログとかやってるけど、僕ぁね、検索して調べるためにネットを使うんだよね」
「ネットって便利ですもんね。お客さんほどじゃないですけど、僕もたまに検索しますよ。三渓園とか」
「横浜に生まれて三渓園を知らないなんて本当に信じられない!」
いっけね。
ぶり返しちゃった。
どんまい俺!
三渓園には、今度行ってみようと思います。