夢見町の史
Let’s どんまい!
2012
February 03
February 03
※今作には残虐な表現や性的描写が含まれています。
お読みになられる際は充分なご覚悟のほど、よろしくお願い申し上げます。
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「そなたのような人ならぬ者の血が赤いとは不可解な」
女王は言って、笑います。
彼女がけたたましい声を上げながら鎖を振るうと、男は顔面の痛みのために悲鳴を上げ、床を血で汚しました。
男は後ろ手を縛られており、うつ伏せのような体勢で吊るし上げられています。
服の一切は脱がされていますが、女王のせいで全身はくまなく赤く濡らされておりました。
「ははははは! 良い気味じゃ!」
女王は、それはそれは嬉しそうです。
しかし彼女の目は少しも笑ってなどいません。
「そなたのような馬鹿でも、さすがに自分の何がどう悪いかを理解したであろう? 申してみよ。そなたの罪は何じゃ?」
しかし男は呻くばかり。
言語を発しようとはしません。
女王はしゃがみ込むと、男の髪を掴んで顔を自分に向けさせます。
「痛みの余り、口が効けぬか。では少しばかり治してやろう」
血に塗れながらも美しい手。
それを男にかざすと、みるみるうちに傷口が塞がってゆきます。
「どうじゃ? 話せる程度には痛みが和らいだであろう? さあ言え。そなたの罪は何じゃ?」
男はそれで、恐る恐る口を開くことになります。
「私の言葉が足りず、女王様に誤解をさせてしまうようなことを申し上げてしまいました」
「違うわ愚か者めが!」
怒声と同時に鎖が飛びます。
男の眼球に、それは強く当たりました。
男は身動きを封じられているせいで、もがくこともできません。
ただただ悲痛の声を上げ続けるばかりです。
そんな男に、女王は何度も何度も鎖を振るいました。
「そもそもは! おぬしが! わらわの言を勝手に曲解し! 先走って! わらわに無駄な忠告をよこしおったのだ! 愚か者! 無礼者! そなた! 聞く耳がないのか!? わらわが! 祭り事を中止にするなどと! いつ申した!? 言え! いつ申した!? それを! おぬしは! わらわに! 祭り事を続行すべきと! 馬鹿者が! そういったとは! 祭り事の中止を! 提案した者に! 申せ! 愚か者! 愚か者! 愚か者!」
女王が最も嫌うこと。
それは言葉が通じぬことでした。
説明の足りぬ者には「人に伝わらぬ言葉など言葉ではない」と責め、理解が及ばぬ者には「正確な言葉を正確に聞けぬ者は人ではない」と責めました。
今から記す物語は、遠い遠い昔の、ある国の御話です。
現代の巷では太古の男女が抱き合ったまま発見されたとか。
その数は3組に及ぶと耳にしております。
ですが、世にある抱き合った男女の遺骨は果たしてその3組だけなのでしょうか?
いえ、そうではありません。
永遠に見つからぬ4組目があるのです。
片方は男。
片方は女。
女は、誰よりも人に苦しみを与えた、この女王です。
彼女は常に拷問を行っておりました。
あまりに酷い拷問に耐えられず、自分の非を認めることで逃れようとする者は少なくありません。
しかし女王は不敵に笑みます。
「そうかそうか。ようやく解ったか。おぬしがどれだけうつけ者なのか、ようやく解ったか。人はな、頭が良いから人なのじゃ。言葉の通じぬそなたはしたがって、人とは程遠い。人間以下じゃ。そのような馬鹿は、わらわの国には要らん」
そう言って、今度は死に至るまで、何日間も苦しめ続けるのでした。
どんなに酷く痛めつけられても、女王に逆らい続ける民も稀にいます。
そのような数少ない人種にも、彼女は高らかに笑いました。
「ほう。ここまでわらわが尽くしても、まだ解らぬと申すか。おぬしほどの阿呆は珍しい。褒美に、先ほど潰したおぬしの目、見えるよう戻してやろう」
男の両目にしばらく手をかざしてから、女王は部下に合図をします。
すると、男の前には巨大な水槽が運ばれてきました。
中にはおびただしい数の小魚が泳いでいて、まるで風に散る花びらのようです。
「見えるか? 西より取り寄せた人喰いの魚じゃ」
水槽に肉を放り込むと、魚たちが一斉にむらがって喰らい、あっという間に骨だけが水底に沈みます。
「この魚、血の匂いを好む好む」
女王の目が、残酷な光を帯びました。
「おぬし、妻があったな? 連れてきてある」
「おやめください!」
何かしらの悪い予感を察して声を荒げる男の顔を、女王は冷たく一瞥します。
「うるさい」
言うが同時に部下の1人が手慣れた手つきで男に猿ぐつわを噛ませました。
石だけで作られた地下の拷問部屋に、男の妻が通されました。
彼女は男と同様に後ろ手を縛られ、一糸纏わぬ姿です。
「なかなか美しい女ではないか」
女王はそして、部屋中を見渡します。
「誰か! こやつを犯したい者はおるか! 何人でも構わんぞ」
おお、と声がして、兵士の数名が手を挙げます。
満足したかのように女王は深く頷き、他人の妻を部下たちに与えました。
男は「んー!」と何度も喉を鳴らし、激しく首を横に振り続けます。
その表情は、女王が最も見たかった光景でした。
女王は片手を自らの乳房に、もう片方の手を下腹部に忍ばせます。
自身を愛撫しながら、恍惚とした顔で命じました。
「大臣を呼んでまいれ」
やがて兵士たちが果て、男とその妻ががっくりとうなだれる頃、女王は舌舐めずりをします。
「おぬしの妻、おぬしが馬鹿なせいでずいぶんと汚されてしまったのう。言葉が通ずる程度の最低限の英知がおぬしにあればよかったのにのう」
言われた男は顔を上げ、涙をいっぱいに溜めた目で女王を睨みます。
「ははははは! まだ怒れるとは気の強い男じゃ! だが安心せい。おぬしの女、たっぷりと清めてくれようぞ」
女王の合図で女は吊り上げられます。
彼女の股から兵士たちの体液がボタボタとしたたりました。
女王は小さな刃を持ち、女の足に当て、すっと引きます。
白い素肌に、1本の赤い線が引かれました。
女は「痛い」と声を出し、男は再び激しく喉を鳴らせ、許しを乞うような表情を浮かべます。
女王はそれを、当然のように無視しました。
「そなた、わらわの言いたいことが理解できぬのであろ? ならばわらわも解らんな。そなたが何を望んでいるのか、わらわには見当もつかぬ」
そして女王は小さな刃を走らせます。
薄く小さく、女の足の指を、足首を、膝下を、太ももを。
女の足元では、白い物と赤い物とが混ざりました。
「この魚、血の匂いを好む好む」
先と同じことを言う女王の目の先には例の巨大な水槽があります。
男がそれに気づき、今までにない大声を喉の奥で鳴らしました。
妻は泣き叫び、全身全霊を持って抵抗しています。
女王はその悲痛な妻の声を男に聞かせるために、わざと彼女に猿ぐつわを使わなかったのでした。
妻の下半身は赤く染められ、もはや肌の色をした部分がありません。
暴れれば暴れるほど滴が散って、女王の服に紅色の染みを作ってゆきます。
自分の口元に跳ねてきた女の血を、女王はうっとりと舐め回しました。
「やれ」
ジャラジャラと鎖の音がして、女が吊り上げられ、水槽の上まで運ばれます。
地下室は、嫌がる女の声と、男の大きな唸り声でいっぱいになりました。
女は少しずつ、少しずつ降ろされてゆきます。
しばらくは足を上げて逆らっていましたが、やがて足の一部が水面に達してしまいました。
魚たちがバシャバシャと、まるで喜ぶ子供のように激しく飛び跳ねます。
女を中心に赤い物が広がって、水槽の中がどうなっているのか見えなくなりました。
女の悲鳴がさらに高く、大きく響きました。
男の唸りが、さらに激しく、大きくなりました。
女王の高笑いが止まりません。
女はさらにゆっくりと、少しずつ、少しずつ降ろされてゆきます。
その都度、魚たちが飛び跳ねました。
女王は先ほど呼んだ大臣を自分の背後に立たせます。
大臣は既に下半身を露わにしており、男の中心を突き立てると、そのまま女王の中で踊らせました。
貫かれながら女王は喜び、白目を剥いている気を失っている女と、血の涙を流している男の顔を交互に見比べ、快楽をむさぼり続けます。
女王と大臣が満足をする頃になると、男の妻は腰まで水に浸かっていました。
着衣の乱れを整えると女王はふっと一息つき、尻まで伸びた美しい金髪を搔き上げます。
男の猿ぐつわを外すと、女王は優しげに言いました。
「先ほどはわらわの部下が、そなたの妻を犯してしまったであろう? それはそなたが愚か者だからなのじゃが、だからといってそなたの妻を孕ますのはわらわの本意ではない。子ができぬよう、計らってやったぞ」
女王の合図で滑車が動きます。
赤く濁っていた水から、女の下半身が引き上げられました。
それを見た男は一瞬押し黙り、しかしすぐに何もかもを吐き出すかのようなとてつもない絶望の悲鳴を上げます。
女王は「次はそなたの番じゃ」と微笑み、愛用の鎖を手にするのでした。
彼女は人の怪我や病を治すことができたので「愛の女神」などと呼ばれ、持てはやされてきましたが、実際は残酷な女でしたから、国民は安心して暮らすことなどできません。
いっそ別の言語を作り、会話が通じないことを女王に知られないように工夫する者まで現われる始末です。
しかし女王は「痛み」に興味深々。
あまりにも拷問をしたいとき、彼女は町娘に扮して理不尽を探すようにさえなりました。
酒場で議論を交わしている最中、人の話を途中で遮った酒飲み。
息子に解りにくい指示を出しておきながら、間違えたら怒るといったパン屋。
城の中でも女王の目は光ります。
会議の際、気にすべきではないどうでもいいことにこだわった者。
現実に行ったらどうなるかの想像をせず安易に「こっちのほうが早い」などと間違った手段を提示した者。
彼女の鎖は、多くの者に飛びました。
一方、城の者も国民も、女王に対して油断をしなくなってゆきます。
どういったことで彼女が怒るのかを観察し、研究し、逆鱗に触れぬよう努めたのです。
おかげで、拷問死させられる者は一時的に減りました。
そうなると、今度は女王が面白くありません。
以前は自分を怒らせる者をこらしめていましたが、今となっては拷問できないことが腹立たしいことなのです。
女王の矛先はそこで、娯楽の世界に向けられました。
「そなたの舞台、見させてもらったが、あれは一体なんじゃ? なぜあのような下品な言動で民が笑ったのじゃ?」
そのように喰ってかかり、議論を生じさせるのです。
論争になればこっちのもの。
噛み合わない会話が出てくるまで言葉を交わし、そこを指摘し、拷問部屋に連行するだけです。
「わらわが思うに、そなたの作は2通りの解釈ができるように思う。1つは同じ題材の作品に対して明確な反論を呼びかけるという考え。もう1つは――」
「恐れながら女王様、それは誤った見方にございます」
「わらわの話はまだ途中じゃ! 何故もう一方の説を最後まで聞けぬのだ愚か者めが!」
この流れは非常に便利で、合理的に人を責めることができます。
女王はすっかり味を占めてしまいました。
少しでも評判に上ると、どんな娯楽でも進んで観覧するようになります。
音楽、本、舞台、絵、踊り。
彼女は様々なものを味わい、結果的には様々な娯楽をこの世から葬っていきました。
そんな中、ある青年の噂を耳にします。
彼は物語の使い手で、書ではなく噺で人を魅了するとか。
「文字ではなく、物語を喋るのか」
女王は興味を持ちました。
言葉を使う者がどれほど自分との会話を成立させられるか、試してみたくなったのです。
「その者を呼んでまいれ」
再び女王の瞳が残酷に輝き、人を屠るための鎖を手で撫でました。
しかし彼女は結局、その青年を痛めつけることができませんでした。
彼の繰り広げる物語が、とてもとても面白かったからです。
中編に続きます。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/466/
お読みになられる際は充分なご覚悟のほど、よろしくお願い申し上げます。
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「そなたのような人ならぬ者の血が赤いとは不可解な」
女王は言って、笑います。
彼女がけたたましい声を上げながら鎖を振るうと、男は顔面の痛みのために悲鳴を上げ、床を血で汚しました。
男は後ろ手を縛られており、うつ伏せのような体勢で吊るし上げられています。
服の一切は脱がされていますが、女王のせいで全身はくまなく赤く濡らされておりました。
「ははははは! 良い気味じゃ!」
女王は、それはそれは嬉しそうです。
しかし彼女の目は少しも笑ってなどいません。
「そなたのような馬鹿でも、さすがに自分の何がどう悪いかを理解したであろう? 申してみよ。そなたの罪は何じゃ?」
しかし男は呻くばかり。
言語を発しようとはしません。
女王はしゃがみ込むと、男の髪を掴んで顔を自分に向けさせます。
「痛みの余り、口が効けぬか。では少しばかり治してやろう」
血に塗れながらも美しい手。
それを男にかざすと、みるみるうちに傷口が塞がってゆきます。
「どうじゃ? 話せる程度には痛みが和らいだであろう? さあ言え。そなたの罪は何じゃ?」
男はそれで、恐る恐る口を開くことになります。
「私の言葉が足りず、女王様に誤解をさせてしまうようなことを申し上げてしまいました」
「違うわ愚か者めが!」
怒声と同時に鎖が飛びます。
男の眼球に、それは強く当たりました。
男は身動きを封じられているせいで、もがくこともできません。
ただただ悲痛の声を上げ続けるばかりです。
そんな男に、女王は何度も何度も鎖を振るいました。
「そもそもは! おぬしが! わらわの言を勝手に曲解し! 先走って! わらわに無駄な忠告をよこしおったのだ! 愚か者! 無礼者! そなた! 聞く耳がないのか!? わらわが! 祭り事を中止にするなどと! いつ申した!? 言え! いつ申した!? それを! おぬしは! わらわに! 祭り事を続行すべきと! 馬鹿者が! そういったとは! 祭り事の中止を! 提案した者に! 申せ! 愚か者! 愚か者! 愚か者!」
女王が最も嫌うこと。
それは言葉が通じぬことでした。
説明の足りぬ者には「人に伝わらぬ言葉など言葉ではない」と責め、理解が及ばぬ者には「正確な言葉を正確に聞けぬ者は人ではない」と責めました。
今から記す物語は、遠い遠い昔の、ある国の御話です。
現代の巷では太古の男女が抱き合ったまま発見されたとか。
その数は3組に及ぶと耳にしております。
ですが、世にある抱き合った男女の遺骨は果たしてその3組だけなのでしょうか?
いえ、そうではありません。
永遠に見つからぬ4組目があるのです。
片方は男。
片方は女。
女は、誰よりも人に苦しみを与えた、この女王です。
彼女は常に拷問を行っておりました。
あまりに酷い拷問に耐えられず、自分の非を認めることで逃れようとする者は少なくありません。
しかし女王は不敵に笑みます。
「そうかそうか。ようやく解ったか。おぬしがどれだけうつけ者なのか、ようやく解ったか。人はな、頭が良いから人なのじゃ。言葉の通じぬそなたはしたがって、人とは程遠い。人間以下じゃ。そのような馬鹿は、わらわの国には要らん」
そう言って、今度は死に至るまで、何日間も苦しめ続けるのでした。
どんなに酷く痛めつけられても、女王に逆らい続ける民も稀にいます。
そのような数少ない人種にも、彼女は高らかに笑いました。
「ほう。ここまでわらわが尽くしても、まだ解らぬと申すか。おぬしほどの阿呆は珍しい。褒美に、先ほど潰したおぬしの目、見えるよう戻してやろう」
男の両目にしばらく手をかざしてから、女王は部下に合図をします。
すると、男の前には巨大な水槽が運ばれてきました。
中にはおびただしい数の小魚が泳いでいて、まるで風に散る花びらのようです。
「見えるか? 西より取り寄せた人喰いの魚じゃ」
水槽に肉を放り込むと、魚たちが一斉にむらがって喰らい、あっという間に骨だけが水底に沈みます。
「この魚、血の匂いを好む好む」
女王の目が、残酷な光を帯びました。
「おぬし、妻があったな? 連れてきてある」
「おやめください!」
何かしらの悪い予感を察して声を荒げる男の顔を、女王は冷たく一瞥します。
「うるさい」
言うが同時に部下の1人が手慣れた手つきで男に猿ぐつわを噛ませました。
石だけで作られた地下の拷問部屋に、男の妻が通されました。
彼女は男と同様に後ろ手を縛られ、一糸纏わぬ姿です。
「なかなか美しい女ではないか」
女王はそして、部屋中を見渡します。
「誰か! こやつを犯したい者はおるか! 何人でも構わんぞ」
おお、と声がして、兵士の数名が手を挙げます。
満足したかのように女王は深く頷き、他人の妻を部下たちに与えました。
男は「んー!」と何度も喉を鳴らし、激しく首を横に振り続けます。
その表情は、女王が最も見たかった光景でした。
女王は片手を自らの乳房に、もう片方の手を下腹部に忍ばせます。
自身を愛撫しながら、恍惚とした顔で命じました。
「大臣を呼んでまいれ」
やがて兵士たちが果て、男とその妻ががっくりとうなだれる頃、女王は舌舐めずりをします。
「おぬしの妻、おぬしが馬鹿なせいでずいぶんと汚されてしまったのう。言葉が通ずる程度の最低限の英知がおぬしにあればよかったのにのう」
言われた男は顔を上げ、涙をいっぱいに溜めた目で女王を睨みます。
「ははははは! まだ怒れるとは気の強い男じゃ! だが安心せい。おぬしの女、たっぷりと清めてくれようぞ」
女王の合図で女は吊り上げられます。
彼女の股から兵士たちの体液がボタボタとしたたりました。
女王は小さな刃を持ち、女の足に当て、すっと引きます。
白い素肌に、1本の赤い線が引かれました。
女は「痛い」と声を出し、男は再び激しく喉を鳴らせ、許しを乞うような表情を浮かべます。
女王はそれを、当然のように無視しました。
「そなた、わらわの言いたいことが理解できぬのであろ? ならばわらわも解らんな。そなたが何を望んでいるのか、わらわには見当もつかぬ」
そして女王は小さな刃を走らせます。
薄く小さく、女の足の指を、足首を、膝下を、太ももを。
女の足元では、白い物と赤い物とが混ざりました。
「この魚、血の匂いを好む好む」
先と同じことを言う女王の目の先には例の巨大な水槽があります。
男がそれに気づき、今までにない大声を喉の奥で鳴らしました。
妻は泣き叫び、全身全霊を持って抵抗しています。
女王はその悲痛な妻の声を男に聞かせるために、わざと彼女に猿ぐつわを使わなかったのでした。
妻の下半身は赤く染められ、もはや肌の色をした部分がありません。
暴れれば暴れるほど滴が散って、女王の服に紅色の染みを作ってゆきます。
自分の口元に跳ねてきた女の血を、女王はうっとりと舐め回しました。
「やれ」
ジャラジャラと鎖の音がして、女が吊り上げられ、水槽の上まで運ばれます。
地下室は、嫌がる女の声と、男の大きな唸り声でいっぱいになりました。
女は少しずつ、少しずつ降ろされてゆきます。
しばらくは足を上げて逆らっていましたが、やがて足の一部が水面に達してしまいました。
魚たちがバシャバシャと、まるで喜ぶ子供のように激しく飛び跳ねます。
女を中心に赤い物が広がって、水槽の中がどうなっているのか見えなくなりました。
女の悲鳴がさらに高く、大きく響きました。
男の唸りが、さらに激しく、大きくなりました。
女王の高笑いが止まりません。
女はさらにゆっくりと、少しずつ、少しずつ降ろされてゆきます。
その都度、魚たちが飛び跳ねました。
女王は先ほど呼んだ大臣を自分の背後に立たせます。
大臣は既に下半身を露わにしており、男の中心を突き立てると、そのまま女王の中で踊らせました。
貫かれながら女王は喜び、白目を剥いている気を失っている女と、血の涙を流している男の顔を交互に見比べ、快楽をむさぼり続けます。
女王と大臣が満足をする頃になると、男の妻は腰まで水に浸かっていました。
着衣の乱れを整えると女王はふっと一息つき、尻まで伸びた美しい金髪を搔き上げます。
男の猿ぐつわを外すと、女王は優しげに言いました。
「先ほどはわらわの部下が、そなたの妻を犯してしまったであろう? それはそなたが愚か者だからなのじゃが、だからといってそなたの妻を孕ますのはわらわの本意ではない。子ができぬよう、計らってやったぞ」
女王の合図で滑車が動きます。
赤く濁っていた水から、女の下半身が引き上げられました。
それを見た男は一瞬押し黙り、しかしすぐに何もかもを吐き出すかのようなとてつもない絶望の悲鳴を上げます。
女王は「次はそなたの番じゃ」と微笑み、愛用の鎖を手にするのでした。
彼女は人の怪我や病を治すことができたので「愛の女神」などと呼ばれ、持てはやされてきましたが、実際は残酷な女でしたから、国民は安心して暮らすことなどできません。
いっそ別の言語を作り、会話が通じないことを女王に知られないように工夫する者まで現われる始末です。
しかし女王は「痛み」に興味深々。
あまりにも拷問をしたいとき、彼女は町娘に扮して理不尽を探すようにさえなりました。
酒場で議論を交わしている最中、人の話を途中で遮った酒飲み。
息子に解りにくい指示を出しておきながら、間違えたら怒るといったパン屋。
城の中でも女王の目は光ります。
会議の際、気にすべきではないどうでもいいことにこだわった者。
現実に行ったらどうなるかの想像をせず安易に「こっちのほうが早い」などと間違った手段を提示した者。
彼女の鎖は、多くの者に飛びました。
一方、城の者も国民も、女王に対して油断をしなくなってゆきます。
どういったことで彼女が怒るのかを観察し、研究し、逆鱗に触れぬよう努めたのです。
おかげで、拷問死させられる者は一時的に減りました。
そうなると、今度は女王が面白くありません。
以前は自分を怒らせる者をこらしめていましたが、今となっては拷問できないことが腹立たしいことなのです。
女王の矛先はそこで、娯楽の世界に向けられました。
「そなたの舞台、見させてもらったが、あれは一体なんじゃ? なぜあのような下品な言動で民が笑ったのじゃ?」
そのように喰ってかかり、議論を生じさせるのです。
論争になればこっちのもの。
噛み合わない会話が出てくるまで言葉を交わし、そこを指摘し、拷問部屋に連行するだけです。
「わらわが思うに、そなたの作は2通りの解釈ができるように思う。1つは同じ題材の作品に対して明確な反論を呼びかけるという考え。もう1つは――」
「恐れながら女王様、それは誤った見方にございます」
「わらわの話はまだ途中じゃ! 何故もう一方の説を最後まで聞けぬのだ愚か者めが!」
この流れは非常に便利で、合理的に人を責めることができます。
女王はすっかり味を占めてしまいました。
少しでも評判に上ると、どんな娯楽でも進んで観覧するようになります。
音楽、本、舞台、絵、踊り。
彼女は様々なものを味わい、結果的には様々な娯楽をこの世から葬っていきました。
そんな中、ある青年の噂を耳にします。
彼は物語の使い手で、書ではなく噺で人を魅了するとか。
「文字ではなく、物語を喋るのか」
女王は興味を持ちました。
言葉を使う者がどれほど自分との会話を成立させられるか、試してみたくなったのです。
「その者を呼んでまいれ」
再び女王の瞳が残酷に輝き、人を屠るための鎖を手で撫でました。
しかし彼女は結局、その青年を痛めつけることができませんでした。
彼の繰り広げる物語が、とてもとても面白かったからです。
中編に続きます。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/466/
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2012
January 06
January 06
第1話・再会
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
第2話・募る想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
第3話・すれ違う想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/459/
------------------------------
まだ小さな子供だったあの頃は、本当に、本当に幸せだった。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
「なんか男らしくないー」
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
結婚できる歳になったら一緒に住もうなんて約束も、2人でしたっけ。
「あたしが16歳になったら結婚しよー!」
「ダメだよ、さっちゃん。男は確か、18歳にならないと、結婚できないんだよ」
「じゃあ、なおくんが18歳になったらね!」
「うん!」
「いつなるの?」
「えっとね、えっとね、今3歳だから、ずっと先の3月!」
「どんぐらい先?」
「わかんない。18歳になったら!」
それであたしたちは、大きな桜の木の根元に手作りの指輪を埋めた。
「ベス…」
あたしはベットに腰掛けたまま、古びたクマのぬいぐるみを顔の高さまで持ち上げる。
「あたしたち、もう、一緒に居られないのかなあ…」
冬休みが終わって、新学期。
もうすぐ卒業式だ。
あたしはずっと沈んだ気分のままで、学校で無理して明るく振舞うのが辛かった。
頭の中には近藤くんの、あの言葉が今でもリピートしている。
「僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
友達、かあ。
そうだよね。
通じ合っていたのは子供の頃だけ。
今はあたしの片想いなんだ。
「はあ」
あれから何ヶ月か経っているというのに、あたしの溜め息はとても深い。
ふと、電話の音に気づき、あたしは重い腰を上げる。
受話器を取った。
「はい、畑中です」
「あの、あの…! 畑中早苗さん、いますか!?」
女の子の声だ。
誰だろう?
「はい、早苗はあたしですけど」
「あの、あの…! 初めまして! あたし、近藤直人の妹なんですけど」
「…え!?」
「突然すみません! お兄ちゃんのことでお話したくって、あの、今からどっかで逢えませんか!?」
あたしはその勢いに押され、「はあ」と曖昧な返事をする。
公園で待っていた中学生の女の子は、あたしに勢いよくペコリと頭を下げた。
妹というだけあって、どこか近藤くんと似た面影がある。
「突然呼び出しちゃって、すみません!」
「あ、いえ」
ブランコの正面にあるベンチに、あたしたちは腰を下ろした。
「お兄ちゃん、ここ最近ずっと元気がないんです」
妹さんは、そう切り出した。
真ん丸な目をあたしに向けている。
「さっちゃんさん、なにか知りませんか?」
「あたしは別に…」
ふと、近藤くんが綺麗な女の人にキスされている場面が脳裏に蘇り、あたしはそれで口を閉ざした。
わずかに風が吹いて、彼女のツインテールが小さく揺れる。
「やっぱり、何かあったんですね」
「…え?」
「ケンカ、しちゃんたんですか? お兄ちゃんと」
「…近藤くんは、なんて?」
「お兄ちゃんからは何も聞いてないです。でも、さっちゃんさんの話をしなくなっちゃって、毎日暗い顔ばっかしてて…」
妹さんは立ち上がり、真剣な眼差しをあたしに向けた。
「お兄ちゃんと、仲直りしてくれませんか!?」
そのままガバっと腰を90度に折り曲げる。
「お願いします!」
「ちょ、そんな、やめてよ!」
彼女に手を添え、身を起こさせる。
「近藤くんはあたしのことなんとも思ってないんだし、仲直りなんてしたって…!」
「え!? もしかして、さっちゃんさん、気づいてないんですか?」
「え…? 気づいてないって…、なにを…?」
「お兄ちゃん、さっちゃんさんに恋してます」
「そ、そんな…! そんなことないよ! だって近藤くんには恋人が…!」
「恋人…? それ、なんの話ですか?」
あたしはそれで、あの日に見てしまったことを話す。
ノートを届けに家まで行ったら、近藤くんとお姉さんがキスしていた、思い出したくない目撃談。
その後、近藤くんから「好きな人がいる」と告げられてしまったことも、気づいたら口にしていた。
「あ~」
妹さんは何かを察したかのように、自分の顎先に指を当てる。
「さっちゃんさん、それ、誤解ですよ」
「誤解?」
「ええ。お兄ちゃんに彼女なんていません」
「でも、家の前で…」
「それ、本当にキスだったんですか?」
「いや、そこまでは…」
「そのこと、お兄ちゃんにちゃんと訊いたほうがいいです。お兄ちゃんの好きな人が誰なのかも、ちゃんと聞いてあげてください」
彼女は最後に、「だらしなくて頼りないお兄ちゃんだけど、これからもよろしくお願いします!」と頭を下げた。
------------------------------
放課後、僕は帰る支度もせず机に突っ伏し、窓の外を眺めるともなく見つめる。
曇っていた空がじきに雨を降らせ、僕にあの日のことを思い出させた。
「いやあ、参ったなあ。もう逢えなくなるみたいな言い方しないでよ。これからもさ、なんかあったらまたみんなで遊ぼう? 僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
「そ、そうだよね! あたしたち、友達、だもんね! これからもまた、あ、遊ぼうね! …さよなら」
もはや溜め息をつくエネルギーさえもない。
雨音は強まり、やがて土砂降りになった。
まるで僕の心の中みたいだ。
「近藤」
声のほうに振り返る。
そこには神妙な面持ちをした春樹が立っていた。
「どうしたんだよお前。ここ最近ずっと変だぞ」
「そ、そんなこと、ないよ」
「1人で抱え込んでんじゃねえよ」
「べ、別に悩んでなんかいないさ」
「どうせ、さっちゃんとなんかあったんだろ? 仲直りできねえのかよ?」
「う、うるさいな。放っといてくれよ」
僕は鞄を掴むと教室を出る。
「おい近藤! 待てよ!」
春樹は靴を履き替えて昇降口を出たあとも追ってきた。
土砂降りの雨の中、2つの傘が足早に進む。
春樹が僕の肩を掴んだ。
「1人で悩んでねえで、たまには相談しろって!」
「うるさいな! 放っといてくれって言ってるだろ!」
「やっぱりさっちゃんのことか? ケンカでもしたのかよ?」
「頼むから、そっとしておいてくれ!」
怒鳴ると、春樹は「ふざけんな!」と声を荒らげる。
「こっちはな! いい加減、お前の暗い顔見るのはうんざりなんだよ!」
「だったら見なきゃいいだろう!?」
「なんだと!?」
「なんだよ!」
傘を放り投げ、僕らは大雨の中で胸ぐらを掴み合う。
------------------------------
「せっかく来てくれたのに、ごめんなさい、さっちゃんさん」
意を決して近藤くんの家を訪ねると、出迎えてくれたのは妹さんだった。
「お兄ちゃん、今は誰とも逢いたくないって言ってて…」
「そう…」
「あ、気を悪くしないでください。さっちゃんさんだから逢いたくないんじゃなくて、お兄ちゃん、お友達とケンカしちゃったみたいで、それで凹んでるだけなんです」
妹さんは必死になって弁明してくれていたけれど、その言葉は耳には入ってこなくて、あたしはただ「ごめんなさい」と残す。
雨の中、とぼとぼと家路についた。
夜中、あたしは自室で机の上にある電気スタンドに明かりを灯す。
臆病なあたしの、ささやかな自己表現。
いつも以上に細かな字をハガキにしたためていった。
こうでもしないと、悲しみに押しつぶされてしまいそうだからだ。
幼い日に、大好きな人と将来を誓い合ったこと。
そんな運命の人と、気づかぬうちに再会していたこと。
再び恋に落ちて、でも上手くいかなくて。
書いていくうちに涙がぽたぽたと落ちて、水性ペンの文字をにじませた。
今まで何度かラジオに投稿していたけれど、これでもうおしまいにしよう。
このハガキが、最後の公開日記だ。
------------------------------
青春いっぱいのはずの高校生活がいよいよ明日で終わろうとしている。
片想いは幕を閉ざしたし、親友にも嫌われた。
まさかこんな沈んだ気分で、卒業式を迎えることになろうとは。
ぼうっとしていると、いつからか電話が鳴っていることに気づき、僕は死んだ目のまま受話器を持ち上げる。
「…はい、近藤です」
「近藤か!? 俺だ!」
「…春、樹…?」
意外な相手だった。
つい先日ケンカしたばかりの僕に、一体なんの用があるっていうんだ?
「近藤! お前今日、誕生日だよな!?」
「え? ああ、そうだけど」
「ラジオ聴け!」
「え?」
言ってることの意味が解らない。
しかし春樹は「FM桜ヶ丘だ!」とまくし立てる。
「いいから言う通りにしてくれ! 頼むから今すぐラジオ点けろ! 今すぐだ! 電話切るから絶対聴けよ! じゃあな!」
一方的に電話を切られる。
「なんだっていうんだ…」
ぶつぶつ言いながら、僕は机の上にあるラジオのスイッチをいれた。
軽快なBGMと男性DJの弾んだ声が流れる。
「…こうしてあたしは幼い頃に大好きだった彼と再会しました。
いいねー! 不良に絡まれているところに助けに入ってくれた人が運命の人だったなんて、なんてロマンチックなんだい」
思い当たるエピソードだった。
僕は大急ぎでラジオのボリュームを上げる。
「…でも、あたしの勝手な勘違いのせいで、彼の話を聞いてあげられなくて、あの人を傷つけてしまいました。今じゃもう、逢いに行っても逢ってもらえません。どうしても謝りたいのに。
もうすぐ、彼は18歳になります。昔あたしたちが結婚するって約束をした日が、もうすぐそこまで迫っています。あたしはその日、指輪を埋めた場所でずっと彼のことを待とうと思っています。
あたしが幼馴染だってこと、彼は気づいてないのかも知れない。気づいていても、約束のことを覚えていないかも知れない。だから、あの桜の丘にはきっと、誰も来ないんだと思います。それでもあたしには何よりも大切な誓いです。
Nくん、大好きだよ。こんなあたしで、ごめんね。
…ラジオネーム、恋するSちゃん! いやあ、切ないねえ! そんな恋するSちゃんに捧げるナンバーはこちら! 春の日フォーリンラブ!」
なんてこった!
僕の誕生日っていったら今日じゃないか!
時計を見るまでもなくなく、とっくに日が暮れている。
こうしちゃいられない!
僕は着の身着のまま自宅を飛び出す。
そこには意外な人影があった。
「俺からのバースデイプレゼントはここからだぜ近藤!」
「春樹…!」
アパートの前で、春樹が自転車に股がっている。
「乗れ!」
何が起こったのか解らなくて混乱してしまったけれど、僕はもつれた足でせかせかと自転車に乗り込む。
春樹が叫んだ。
「飛ばすぜ! しっかり捕まってろよ!」
2人乗りとはとても思えない勢いで自転車が加速してゆく。
春樹に謝ったらいいのかお礼を言ったらいいのか判断できなくて、結局何も言えない。
自転車が細い道に入る。
どこかで聞いたことがあるような男の声がした。
「あれ? おいテツ。あいつ、いつかの…」
「おう、待て兄ちゃん、コラぁ~!」
春樹が「ちっ! 西高の奴らか」と毒づいた。
以前さっちゃんに絡んでいた2人が、行く手を塞いでいる。
「おうヒーローさんよお、会いたかったぜコラぁ~」
「オメーのおかげでこちとらポリ公に散々絞られたんだ。たっぷりお礼させてもらうぜコラぁ~」
よりによって、こんなときに。
最悪だ。
僕の顔色は相当悪くなったに違いない。
解決策がまるで見えなかったからだ。
しかし、春樹が自転車を降り、ハンドルを僕に持たせる。
「近藤! 俺のチャリ使え!」
「え?」
「あの丘には別の道からも行けるだろ?」
「え、でも春樹、お前が…」
「行け近藤! これ以上、さっちゃん待たせるんじゃねえよ」
不良たちが迫ってくる。
「なにごちゃごちゃ言ってんだコラぁ~」
「西高の風神テツと雷神カズ舐めんじゃねえぞコラぁ~」
そんな彼らの声をかき消すかのように春樹が吠える。
「行け近藤!」
すまない!
と告げて、僕は自転車に股がった。
「あ、待ちやがれコラぁ~!」
「逃がさねえぞコラぁ~!」
「おっと!」
春樹が2人組の前に立ちはだかるのが、背中越しに解った。
「ここから先は通行止めだぜ?」
すまない、春樹。
ありがとう。
心の中で告げながら、ペダルを漕ぐ足に力を込める。
------------------------------
小さなシャベルでそこを掘ると、出てきたのは小さな箱だ。
開けると、出来がいいだなんてお世辞でも言えないようなリングが2つ。
知らない人が見たらゴミにしか見えないだろうなあ。
色付きの針金で作られた婚約指輪だ。
「あはは。ちっちゃい」
3歳児の薬指に合わせたサイズのそれは、付けてみると指の途中で止まった。
あの頃は、一生懸命これを作って、この桜の木の下で結婚するなんて夢を2人で思い描いていたっけ。
この指輪が入らなくなるぐらい大きくなった今は、そんな夢ももう見ちゃいけないのかも知れない。
ぽたりと、指輪に雫が落ちた。
「なおくん、素直になれなくって、ごめんね」
あたしは無理に笑って桜の木を見上げる。
「えへへ。一生、一緒に居たいのは、昔も今も変わらないんだけどなあ。あたし、やっぱりダメだなあ」
「ダメなんかじゃないよ!」
「…え?」
驚いて振り返る。
あたしはそれで、さらに驚くことになった。
近藤くんが息を切らせ、肩を大きく上下させている。
「近藤くん!? どうして!?」
「さっちゃんに、言いたいことがあって」
春を思わせる暖かい風が吹いて、さあっと夜桜が揺れた。
「あたしに、言いたいこと?」
「うん」
近藤くん、いや。
なおくんが息を整えて、あたしの正面に立つ。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
涙が一気にこぼれだすのを、あたしは必死に笑って誤魔化した。
「なんか、男らしくないー」
桜の花びらが踊る。
なおくんが優しげな目で、あたしの髪を撫でた。
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
えへへ、とあたしは涙を拭う。
なおくんの胸に顔を埋めて、あたしは彼の背中に手を回した。
------------------------------
「約束、覚えててくれたんだ」
抱きしめると、さっちゃんはポツリとそう言った。
「もちろん」
包み込むようにして彼女の髪に手を添える。
夜風がまた吹いて、桜の花びらをさらに降らせた。
ふと丘の麓で何かが動いたような気がして目をやると、親友が気取った素振りで肩をすぼめている。
春樹はそのまま踵を返すと、背中越しに手を降って自転車に乗り、帰ってゆく。
「どうしたの? なおくん」
「ううん、なんでもないよ。それより、待たせてごめん」
「えへへ。15年も、だもんね」
僕も少し笑って、さっちゃんから指輪の片方を受け取った。
それはとても小さくて、薬指の先で止まってしまう。
「ちゃんとした指輪、買わなきゃいけないなあ」
「ううん。これで充分だよ」
さっちゃんが僕の首に腕を回した。
「その代わり、守ってね。一生」
彼女が目を閉じて、つま先立ちをする。
桃色の花びらが僕らを包み込んだ。
唇を離すと、僕はようやく胸を無で下ろす。
長かった。
本当に、本当に長かった。
3歳のときに1度。
18歳になって、もう1度。
どうやら2回で、僕のプロポーズは成功したみたいだ。
――了――
------------------------------
参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
第2話・募る想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
第3話・すれ違う想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/459/
------------------------------
まだ小さな子供だったあの頃は、本当に、本当に幸せだった。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
「なんか男らしくないー」
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
結婚できる歳になったら一緒に住もうなんて約束も、2人でしたっけ。
「あたしが16歳になったら結婚しよー!」
「ダメだよ、さっちゃん。男は確か、18歳にならないと、結婚できないんだよ」
「じゃあ、なおくんが18歳になったらね!」
「うん!」
「いつなるの?」
「えっとね、えっとね、今3歳だから、ずっと先の3月!」
「どんぐらい先?」
「わかんない。18歳になったら!」
それであたしたちは、大きな桜の木の根元に手作りの指輪を埋めた。
「ベス…」
あたしはベットに腰掛けたまま、古びたクマのぬいぐるみを顔の高さまで持ち上げる。
「あたしたち、もう、一緒に居られないのかなあ…」
冬休みが終わって、新学期。
もうすぐ卒業式だ。
あたしはずっと沈んだ気分のままで、学校で無理して明るく振舞うのが辛かった。
頭の中には近藤くんの、あの言葉が今でもリピートしている。
「僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
友達、かあ。
そうだよね。
通じ合っていたのは子供の頃だけ。
今はあたしの片想いなんだ。
「はあ」
あれから何ヶ月か経っているというのに、あたしの溜め息はとても深い。
ふと、電話の音に気づき、あたしは重い腰を上げる。
受話器を取った。
「はい、畑中です」
「あの、あの…! 畑中早苗さん、いますか!?」
女の子の声だ。
誰だろう?
「はい、早苗はあたしですけど」
「あの、あの…! 初めまして! あたし、近藤直人の妹なんですけど」
「…え!?」
「突然すみません! お兄ちゃんのことでお話したくって、あの、今からどっかで逢えませんか!?」
あたしはその勢いに押され、「はあ」と曖昧な返事をする。
公園で待っていた中学生の女の子は、あたしに勢いよくペコリと頭を下げた。
妹というだけあって、どこか近藤くんと似た面影がある。
「突然呼び出しちゃって、すみません!」
「あ、いえ」
ブランコの正面にあるベンチに、あたしたちは腰を下ろした。
「お兄ちゃん、ここ最近ずっと元気がないんです」
妹さんは、そう切り出した。
真ん丸な目をあたしに向けている。
「さっちゃんさん、なにか知りませんか?」
「あたしは別に…」
ふと、近藤くんが綺麗な女の人にキスされている場面が脳裏に蘇り、あたしはそれで口を閉ざした。
わずかに風が吹いて、彼女のツインテールが小さく揺れる。
「やっぱり、何かあったんですね」
「…え?」
「ケンカ、しちゃんたんですか? お兄ちゃんと」
「…近藤くんは、なんて?」
「お兄ちゃんからは何も聞いてないです。でも、さっちゃんさんの話をしなくなっちゃって、毎日暗い顔ばっかしてて…」
妹さんは立ち上がり、真剣な眼差しをあたしに向けた。
「お兄ちゃんと、仲直りしてくれませんか!?」
そのままガバっと腰を90度に折り曲げる。
「お願いします!」
「ちょ、そんな、やめてよ!」
彼女に手を添え、身を起こさせる。
「近藤くんはあたしのことなんとも思ってないんだし、仲直りなんてしたって…!」
「え!? もしかして、さっちゃんさん、気づいてないんですか?」
「え…? 気づいてないって…、なにを…?」
「お兄ちゃん、さっちゃんさんに恋してます」
「そ、そんな…! そんなことないよ! だって近藤くんには恋人が…!」
「恋人…? それ、なんの話ですか?」
あたしはそれで、あの日に見てしまったことを話す。
ノートを届けに家まで行ったら、近藤くんとお姉さんがキスしていた、思い出したくない目撃談。
その後、近藤くんから「好きな人がいる」と告げられてしまったことも、気づいたら口にしていた。
「あ~」
妹さんは何かを察したかのように、自分の顎先に指を当てる。
「さっちゃんさん、それ、誤解ですよ」
「誤解?」
「ええ。お兄ちゃんに彼女なんていません」
「でも、家の前で…」
「それ、本当にキスだったんですか?」
「いや、そこまでは…」
「そのこと、お兄ちゃんにちゃんと訊いたほうがいいです。お兄ちゃんの好きな人が誰なのかも、ちゃんと聞いてあげてください」
彼女は最後に、「だらしなくて頼りないお兄ちゃんだけど、これからもよろしくお願いします!」と頭を下げた。
------------------------------
放課後、僕は帰る支度もせず机に突っ伏し、窓の外を眺めるともなく見つめる。
曇っていた空がじきに雨を降らせ、僕にあの日のことを思い出させた。
「いやあ、参ったなあ。もう逢えなくなるみたいな言い方しないでよ。これからもさ、なんかあったらまたみんなで遊ぼう? 僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
「そ、そうだよね! あたしたち、友達、だもんね! これからもまた、あ、遊ぼうね! …さよなら」
もはや溜め息をつくエネルギーさえもない。
雨音は強まり、やがて土砂降りになった。
まるで僕の心の中みたいだ。
「近藤」
声のほうに振り返る。
そこには神妙な面持ちをした春樹が立っていた。
「どうしたんだよお前。ここ最近ずっと変だぞ」
「そ、そんなこと、ないよ」
「1人で抱え込んでんじゃねえよ」
「べ、別に悩んでなんかいないさ」
「どうせ、さっちゃんとなんかあったんだろ? 仲直りできねえのかよ?」
「う、うるさいな。放っといてくれよ」
僕は鞄を掴むと教室を出る。
「おい近藤! 待てよ!」
春樹は靴を履き替えて昇降口を出たあとも追ってきた。
土砂降りの雨の中、2つの傘が足早に進む。
春樹が僕の肩を掴んだ。
「1人で悩んでねえで、たまには相談しろって!」
「うるさいな! 放っといてくれって言ってるだろ!」
「やっぱりさっちゃんのことか? ケンカでもしたのかよ?」
「頼むから、そっとしておいてくれ!」
怒鳴ると、春樹は「ふざけんな!」と声を荒らげる。
「こっちはな! いい加減、お前の暗い顔見るのはうんざりなんだよ!」
「だったら見なきゃいいだろう!?」
「なんだと!?」
「なんだよ!」
傘を放り投げ、僕らは大雨の中で胸ぐらを掴み合う。
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「せっかく来てくれたのに、ごめんなさい、さっちゃんさん」
意を決して近藤くんの家を訪ねると、出迎えてくれたのは妹さんだった。
「お兄ちゃん、今は誰とも逢いたくないって言ってて…」
「そう…」
「あ、気を悪くしないでください。さっちゃんさんだから逢いたくないんじゃなくて、お兄ちゃん、お友達とケンカしちゃったみたいで、それで凹んでるだけなんです」
妹さんは必死になって弁明してくれていたけれど、その言葉は耳には入ってこなくて、あたしはただ「ごめんなさい」と残す。
雨の中、とぼとぼと家路についた。
夜中、あたしは自室で机の上にある電気スタンドに明かりを灯す。
臆病なあたしの、ささやかな自己表現。
いつも以上に細かな字をハガキにしたためていった。
こうでもしないと、悲しみに押しつぶされてしまいそうだからだ。
幼い日に、大好きな人と将来を誓い合ったこと。
そんな運命の人と、気づかぬうちに再会していたこと。
再び恋に落ちて、でも上手くいかなくて。
書いていくうちに涙がぽたぽたと落ちて、水性ペンの文字をにじませた。
今まで何度かラジオに投稿していたけれど、これでもうおしまいにしよう。
このハガキが、最後の公開日記だ。
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青春いっぱいのはずの高校生活がいよいよ明日で終わろうとしている。
片想いは幕を閉ざしたし、親友にも嫌われた。
まさかこんな沈んだ気分で、卒業式を迎えることになろうとは。
ぼうっとしていると、いつからか電話が鳴っていることに気づき、僕は死んだ目のまま受話器を持ち上げる。
「…はい、近藤です」
「近藤か!? 俺だ!」
「…春、樹…?」
意外な相手だった。
つい先日ケンカしたばかりの僕に、一体なんの用があるっていうんだ?
「近藤! お前今日、誕生日だよな!?」
「え? ああ、そうだけど」
「ラジオ聴け!」
「え?」
言ってることの意味が解らない。
しかし春樹は「FM桜ヶ丘だ!」とまくし立てる。
「いいから言う通りにしてくれ! 頼むから今すぐラジオ点けろ! 今すぐだ! 電話切るから絶対聴けよ! じゃあな!」
一方的に電話を切られる。
「なんだっていうんだ…」
ぶつぶつ言いながら、僕は机の上にあるラジオのスイッチをいれた。
軽快なBGMと男性DJの弾んだ声が流れる。
「…こうしてあたしは幼い頃に大好きだった彼と再会しました。
いいねー! 不良に絡まれているところに助けに入ってくれた人が運命の人だったなんて、なんてロマンチックなんだい」
思い当たるエピソードだった。
僕は大急ぎでラジオのボリュームを上げる。
「…でも、あたしの勝手な勘違いのせいで、彼の話を聞いてあげられなくて、あの人を傷つけてしまいました。今じゃもう、逢いに行っても逢ってもらえません。どうしても謝りたいのに。
もうすぐ、彼は18歳になります。昔あたしたちが結婚するって約束をした日が、もうすぐそこまで迫っています。あたしはその日、指輪を埋めた場所でずっと彼のことを待とうと思っています。
あたしが幼馴染だってこと、彼は気づいてないのかも知れない。気づいていても、約束のことを覚えていないかも知れない。だから、あの桜の丘にはきっと、誰も来ないんだと思います。それでもあたしには何よりも大切な誓いです。
Nくん、大好きだよ。こんなあたしで、ごめんね。
…ラジオネーム、恋するSちゃん! いやあ、切ないねえ! そんな恋するSちゃんに捧げるナンバーはこちら! 春の日フォーリンラブ!」
なんてこった!
僕の誕生日っていったら今日じゃないか!
時計を見るまでもなくなく、とっくに日が暮れている。
こうしちゃいられない!
僕は着の身着のまま自宅を飛び出す。
そこには意外な人影があった。
「俺からのバースデイプレゼントはここからだぜ近藤!」
「春樹…!」
アパートの前で、春樹が自転車に股がっている。
「乗れ!」
何が起こったのか解らなくて混乱してしまったけれど、僕はもつれた足でせかせかと自転車に乗り込む。
春樹が叫んだ。
「飛ばすぜ! しっかり捕まってろよ!」
2人乗りとはとても思えない勢いで自転車が加速してゆく。
春樹に謝ったらいいのかお礼を言ったらいいのか判断できなくて、結局何も言えない。
自転車が細い道に入る。
どこかで聞いたことがあるような男の声がした。
「あれ? おいテツ。あいつ、いつかの…」
「おう、待て兄ちゃん、コラぁ~!」
春樹が「ちっ! 西高の奴らか」と毒づいた。
以前さっちゃんに絡んでいた2人が、行く手を塞いでいる。
「おうヒーローさんよお、会いたかったぜコラぁ~」
「オメーのおかげでこちとらポリ公に散々絞られたんだ。たっぷりお礼させてもらうぜコラぁ~」
よりによって、こんなときに。
最悪だ。
僕の顔色は相当悪くなったに違いない。
解決策がまるで見えなかったからだ。
しかし、春樹が自転車を降り、ハンドルを僕に持たせる。
「近藤! 俺のチャリ使え!」
「え?」
「あの丘には別の道からも行けるだろ?」
「え、でも春樹、お前が…」
「行け近藤! これ以上、さっちゃん待たせるんじゃねえよ」
不良たちが迫ってくる。
「なにごちゃごちゃ言ってんだコラぁ~」
「西高の風神テツと雷神カズ舐めんじゃねえぞコラぁ~」
そんな彼らの声をかき消すかのように春樹が吠える。
「行け近藤!」
すまない!
と告げて、僕は自転車に股がった。
「あ、待ちやがれコラぁ~!」
「逃がさねえぞコラぁ~!」
「おっと!」
春樹が2人組の前に立ちはだかるのが、背中越しに解った。
「ここから先は通行止めだぜ?」
すまない、春樹。
ありがとう。
心の中で告げながら、ペダルを漕ぐ足に力を込める。
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小さなシャベルでそこを掘ると、出てきたのは小さな箱だ。
開けると、出来がいいだなんてお世辞でも言えないようなリングが2つ。
知らない人が見たらゴミにしか見えないだろうなあ。
色付きの針金で作られた婚約指輪だ。
「あはは。ちっちゃい」
3歳児の薬指に合わせたサイズのそれは、付けてみると指の途中で止まった。
あの頃は、一生懸命これを作って、この桜の木の下で結婚するなんて夢を2人で思い描いていたっけ。
この指輪が入らなくなるぐらい大きくなった今は、そんな夢ももう見ちゃいけないのかも知れない。
ぽたりと、指輪に雫が落ちた。
「なおくん、素直になれなくって、ごめんね」
あたしは無理に笑って桜の木を見上げる。
「えへへ。一生、一緒に居たいのは、昔も今も変わらないんだけどなあ。あたし、やっぱりダメだなあ」
「ダメなんかじゃないよ!」
「…え?」
驚いて振り返る。
あたしはそれで、さらに驚くことになった。
近藤くんが息を切らせ、肩を大きく上下させている。
「近藤くん!? どうして!?」
「さっちゃんに、言いたいことがあって」
春を思わせる暖かい風が吹いて、さあっと夜桜が揺れた。
「あたしに、言いたいこと?」
「うん」
近藤くん、いや。
なおくんが息を整えて、あたしの正面に立つ。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
涙が一気にこぼれだすのを、あたしは必死に笑って誤魔化した。
「なんか、男らしくないー」
桜の花びらが踊る。
なおくんが優しげな目で、あたしの髪を撫でた。
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
えへへ、とあたしは涙を拭う。
なおくんの胸に顔を埋めて、あたしは彼の背中に手を回した。
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「約束、覚えててくれたんだ」
抱きしめると、さっちゃんはポツリとそう言った。
「もちろん」
包み込むようにして彼女の髪に手を添える。
夜風がまた吹いて、桜の花びらをさらに降らせた。
ふと丘の麓で何かが動いたような気がして目をやると、親友が気取った素振りで肩をすぼめている。
春樹はそのまま踵を返すと、背中越しに手を降って自転車に乗り、帰ってゆく。
「どうしたの? なおくん」
「ううん、なんでもないよ。それより、待たせてごめん」
「えへへ。15年も、だもんね」
僕も少し笑って、さっちゃんから指輪の片方を受け取った。
それはとても小さくて、薬指の先で止まってしまう。
「ちゃんとした指輪、買わなきゃいけないなあ」
「ううん。これで充分だよ」
さっちゃんが僕の首に腕を回した。
「その代わり、守ってね。一生」
彼女が目を閉じて、つま先立ちをする。
桃色の花びらが僕らを包み込んだ。
唇を離すと、僕はようやく胸を無で下ろす。
長かった。
本当に、本当に長かった。
3歳のときに1度。
18歳になって、もう1度。
どうやら2回で、僕のプロポーズは成功したみたいだ。
――了――
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
2011
December 28
December 28
第1話・再会
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
第2話・募る想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
------------------------------
「もしもし? あの、あたし近藤くんと同じクラスの畑中っていいます」
「あ、さっちゃん? 僕だよ」
この僕の返しに、妹がやたらと表情を輝かせた。
一体誰に似たのか、妹は好奇心いっぱいに僕の持つ受話器に耳をくっつけようと頬を寄せてくる。
聞き耳を立てられているとも知らず、さっちゃんが言った。
「あ、近藤くん? 今、電話、平気だった?」
「もちろん! あ、ちょっと待ってて」
しっしと妹を追っ払おうとしたけれど、こいつはどうにもしつこく、そばを離れようとしない。
さっちゃんとの会話を聞かれたくないから僕が部屋の隅まで避難したいところだけど、電話のコードが長くないからそれもできない。
仕方ない。
落ち着かないけど、妹を振り切ることは諦めよう。
「あ、ごめんね、さっちゃん。もう大丈夫」
「あ、うん。突然なんだけどね? 近藤くん、今日って何か予定ある?」
「え? 今日? 今からってこと?」
「うん。優子ちゃんや春樹くんと一緒に、うちで勉強会しようってことになって…」
「さっちゃん家で!?」
「うん。狭いアパートだけど、もしよかったら」
さっちゃんの家に遊びに、いや。
勉強しに行けるだって!?
高まる鼓動を抑え、僕は極めて自然体を装う。
「いやあ! 奇遇だなあ! 僕も今から猛勉強しようと思ってたんだよ! でも僕、集中力が続かないからなあ! 丁度誰かと一緒に勉強できたらなあーって思っていたんだよ! いや実にタイミングがいい!」
「本当?」
受話器の向こうで、さっちゃんが嬉しそうな声を出した。
「じゃあ、これから4人でお勉強、しよ」
「しますとも!」
満面の笑みを浮かべながら、「じゃあ後ほど!」と約束をし、受話器を置く。
「はあ~」
突然舞い降りた幸運に、ついだらしなく口元が緩む。
力強くほっぺたをつねってみた。
「痛い…。夢じゃない…」
「ねえねえ! お兄ちゃん!」
妹が僕を揺さぶる。
「今の人って誰!? お兄ちゃんの彼女!?」
「ち、違うよ!」
「海に一緒に行った人でしょ!?」
「いや、そ、そうだけどさ」
「今からデート!?」
「バ…! なに言ってんだ! さっちゃんとはそんな仲じゃ…!」
「ふうん。さっちゃんていうんだ?」
「う、うるさいな!」
妹を振り切り、自分の部屋に足を向ける。
「に、兄ちゃんこれから勉強会なんだ! そんな浮かれていられないよ!」
教科書や参考書、ノートに筆記用具を鞄に詰め込む。
せかせかと足早に玄関を開け、僕は制服姿のまま飛び出した。
「きゃ」
「あ、ごめんなさい!」
うちは玄関前がそれほど広くないアパートだ。
家を出た瞬間、隣に住むお姉さんとぶつかってしまった。
「ンもう」
どこか色っぽく、お姉さんが茶色い髪を耳にかける。
「気をつけなさい? ボウヤ」
「は、はい! す、すみません!」
このお姉さん、いっつも薄着だし、胸元とか太ももとか、肌を露出させる服ばかりを着ている。
目のやり場に、実に困る。
「ンフフ。これからデート?」
「い、いえ、そういうわけじゃ…!」
「照れちゃって、可愛い」
「そ、そんな! か、からかわないでください!」
僕は鞄を背負い直し、「失礼します!」と慌ててアパートを飛び出した。
------------------------------
「そ、そうだ! 近藤くんが来る前に、ベスを隠さなきゃ!」
3歳の頃、なおくんから貰ったクマのぬいぐるみ。
すっかりくたびれてしまった宝物を、あたしは顔の高さまで掲げる。
「ごめんね、ベス。ちょっと押入れに隠れてて」
もし近藤くんにベスを見られたら、あたしが幼馴染だったと気づかれてしまうだろう。
あたしが昔の婚約者だったってことを解ってもらいたい気持ちと、今はまだ隠しておきたいという照れ。
しばらくは恥じらいの感情のほうが先立ちそうだ。
フスマを開け、畳まれた布団の上にそっとベスを寝かせた。
友人たちを招き入れる。
あたしの部屋は一気に賑やかになって、とても勉強をしているような雰囲気ではない。
「ちょっと春樹、あたしの消しゴム勝手に持っていかないでよ」
「いいだろ? 少しぐらい貸せよ」
「少しぐらいって、あんたすぐ無くすじゃない。ホントだらしないんだから」
「なんだと!?」
「なによ!?」
優子ちゃんと春樹くんの微笑ましいやり取りを見て、あたしと近藤くんは目を合わせると、お互い少し肩をすぼめた。
いつものことながら、2人のケンカはさらにエスカレートしてゆく。
「だいたい佐伯! お前だって人のこと言えねえじゃねえか!」
「なんでよ!?」
「俺の部屋でテレビのチャンネル変えようとして、一生懸命電話の子機をテレビに向けてたクセによ!」
「ちょ…! そ、それは関係ないでしょ今!?」
「あれえ? テレビが反応しなーい! このリモコン電池切れてるよ春樹ー?」
「う、うるさいわね!」
「新しい電池どこー?」
「もー! やめてよ!」
「きゃ! いきなり着信音があ! これ、電話の子機じゃなーい!」
「い、いい加減にしなさいッ!」
優子ちゃんの鉄拳が炸裂する。
春樹くんは「ぐあッ」と悲痛な叫びを上げ、吹っ飛ばされた。
押入れに激突し、フスマが外れる。
「あ!」
と、思わず叫ぶ。
衝撃でベスが落ち、春樹くんの頭の上にストンと乗った。
「なんだこりゃ」
「あ、あの…!」
あたしはあたふたとベスを取り上げ、それを抱きしめたままみんなに背を向ける。
そのまま部屋を飛び出して、ベスを台所に隠した。
戻ると、3人とも頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
あたしは「あはは」と指をもじもじさせ、「じゃ、勉強の続きしよっか?」と強引に誤魔化す。
…という一連の出来事をハガキに書いて、あたしはベットにごろりと横たわった。
このハガキはあとでポストに投函しておこう。
「あなたに降りかかった面白ハプニング」のコーナーに採用されるかなあ。
あたしは仰向けのまま、ベスを両手で持ち上げる。
すっかりくたびれた子グマのつぶらな瞳が、あたしを見つめた。
「ねえベス? 近藤くんに、ベスのこと見られちゃったかなあ? どうしよう。あたしが幼馴染のさっちゃんだって、気づかれちゃったかなあ? べスー、どうしよ~。近藤くん、今頃どんなこと考えてのかなあ?」
------------------------------
「はっくしょん!」
誰か僕の噂でもしているのか、帰り道で大きなクシャミが出た。
鼻をすすって、僕は遠い遠い昔を回想をする。
「さっちゃん、これ! プレゼント! 大事にしてね」
「なおくん…」
「また逢えるよね? それまで寂しいと思って、ぬいぐるみ」
「なおくん! 大好きだよ! また逢おうね! 絶対絶対逢おうね!」
「うん! 待ってるよ! 元気でね! …元気でね、さっちゃん!」
さっちゃんの部屋で見たあのクマのぬいぐるみは、僕が幼馴染に贈った物にとてもよく似ていた。
いや、似ていたどころか、同じ物だったように思う。
十数年経ったかのような、あの古びた感じ。
幼馴染のさっちゃんは引越しをして行ったけど、もしかして戻ってきていたのではないだろうか。
こっちのさっちゃん、畑中早苗さんは去年転校してきたって言っていたし、もしかして同一人物なんじゃ…?
アパートの階段を登る。
もうすぐ家だ。
「早苗の『さ』は、さっちゃんの『さ』、か…」
ぶつぶつとつぶやいていると、突然目の前が真っ暗になって、柔らかい感触が顔を覆った。
「あら」
女の人の声だ。
びっくりして身を引くと、またしてもお隣さんだった。
お姉さんの胸に、僕は顔からぶつかってしまったらしい。
「す、すみません!」
「フフ」
お姉さんが口元のホクロをわずかに吊り上げる。
「また何か考え事してたの? ダメよ? ちゃんと前を見ないと」
「あ、はい、すみませんでした!」
「あらあら。堅くなっちゃって、緊張してるのかしら?」
「いえ! そんなことは…!」
「フフ。ブレザーのネクタイ、ズレてるわよ?」
「え、あ…」
「お姉さんが直して、あ、げ、る」
お姉さんが僕の首元に両手を添え、少しかがむ。
僕はドギマギと気を付けの姿勢になり、固まった。
------------------------------
あたしは1冊のノートを手に、公園で花を摘んだ。
いつか生徒手帳を届けに行ったことがあるから、近藤くんの家がどこにあるのかは解る。
ただ、つい今しがたベスを見られてしまったせいで、逢いに行きたくても抵抗があった。
さっきの勉強会で、近藤くんが忘れていったノート。
学校で渡してもいいんだけど、せっかくの逢うチャンスだ。
この機会を無駄にしたくない気持ちもあった。
あたしは花びらを1枚1枚引き抜いてゆく。
「ノートを届けに行く、行かない、行く、行かない…」
こうしてあたしは今、近藤くんのアパートの前に立っている。
心の中で呪文のように唱えた。
「さっきのベスを見て、近藤くんが何か思い出してしまったかどうかだって、逢って反応を見たら解るでしょ? 勇気出せ、早苗!」
階段を登る。
そこで、あたしはこの世で最も見てはいけないものを見たような心地がした。
直立不動でこちらに背中を向けている近藤くん。
その正面に年上らしい女の人がかがんでいて、近藤くんに顔を寄せている。
顔を話すと彼女は「ちゃんとしなきゃダメよ」などと言った。
まさか、キス、してたの…?
あたしはすっかり動揺してしまって、ノートを落とし、その場を走り去る。
「あ、さっちゃん!」
背後から、近藤くんの声が聞こえた。
りんりんりん。
夜になって、あたしの家の電話は何度も鳴る。
「もしもし、さっちゃん!? 僕だよ! 話を聞いて!」
「知らない!」
あたしはその都度電話を切って、そして泣いた。
近藤くんに恋人がいたなんて…。
脳裏には、口づけを交わすさっきの光景が繰り返し映し出されている。
思い出したくないのに…。
りんりんりん。
再び着信を知らせるベル。
あたしは苛立って、乱暴に受話器を取った。
「しつこいわね! 知らないって言ってるでしょ!?」
「ん? 何を知らないんだ?」
近藤くんじゃない声に一瞬にして顔が青くなった。
「や、安田先生!?」
「おう。畑中か?」
「は、はい! すみませんすみません!」
うちの担任の先生だった。
「悪いな突然。今、電話平気か?」
「は、はい! 大丈夫です!」
「そうか。いきなりで悪いんだがな、畑中、次の日曜、なんか予定あるか?」
「え? 日曜、ですか?」
「ああ。先生サッカー部の顧問やってるだろ?」
「はい」
「今度の日曜、3年生の引退試合なんだ。なんだが、マネージャーが1人来られなくなってな。お前、うちの部の近藤や春樹なんかとも仲いいだろう? もし空いてたら是非手伝ってほしいと思ってな。どうだ?」
「3年生の、引退試合、ですか…」
近藤くんの顔が。
さっきのキスシーンが再び浮かんで、胸がズキンと痛む。
「どうした? どこか具合が悪いのか?」
「いえ、そういうわけじゃ…」
「先生、最近何かと悩みを打ち明けられる機会が多くってなあ~」
受話器の向こうで、先生が微笑んだような気がした。
「畑中。あまり自分の中だけに溜め込むなよ? 誰かに打ち明けるだけでも、ずいぶん気が楽になるもんだ。先生でもよかったら、いつでも待ってるからな」
とても優しいその声に、あたしはついに泣き出して、受話器をぎゅっと強く握り込む。
------------------------------
日曜日。
そわそわと、僕はさっちゃんの家の前で待つ。
どうにかして誤解を解かないと。
先日かかってきた先生からの電話のおかげで僕はチャンスを得ていて、それで今ここにいる。
「引退試合の日、急遽畑中にマネージャーを頼んだんだ。近藤お前、悪いんだが、日曜、畑中を迎えに行ってくれないか?」
ようし、今日こそ話を聞いてもらうぞ!
そして、好きだって気持ちを伝えよう。
こないだ気づいたんだ。
やっぱりさっちゃんは、3歳の頃に婚約をした運命の人だった。
そのことが解ったおかげで、僕は自分の気持ちを知ることもできたんだ。
僕はゴクリと喉を鳴らした。
まず、なんて切り出そう?
「やあさっちゃん! おはよう! さ、行こっか!」
そんなのダメだ、軽すぎる。
「本日はマネージャーを引き受けてくださり、誠にありがとうございます。さ、参りましょう」
ダメダメ!
時代劇じゃないんだから!
「ごめんね、今日はよろしくお願いね? 悪いね、日曜に。ホントすみません」
卑屈すぎる。
「難しいなあ」
「…なにが難しいの?」
「うわおう! さっちゃん!?」
いつの間にか後ろにさっちゃんが立っていて、僕は小さく飛び上がった。
「お、おはよう!」
声をかけるがしかし、さっちゃんは何も返してはくれず、下を向いて黙ったままだ。
「い、行こうか」
試合会場までそのまま、僕らは言葉を交わすことはなかった。
このままじゃダメだ。
ユニホームに着替え、もうすぐキックオフ。
僕はさっちゃんをグラウンドの隅へと連れ出す。
「お願い! こっち来て!」
「…なあに?」
「お願いがあるんだ」
「…どんな?」
「僕の話を、ちゃんと聞いてほしい」
しかしさっちゃんは返事をしない。
構わず、僕は続けた。
「約束して? この試合に勝ったら、僕の話を聞いてくれる、って。その、大事な話だから」
さっちゃんからの返事を待たず、僕は踵を返し、グラウンドへと向かった。
------------------------------
試合開始を告げるホイッスルが鳴り響く。
相手チームは強かった。
春樹くんの調子も良くないみたいだし、全体的にペースが掴めていないように、あたしには見えた。
近藤くんは、大事な話があるって言っていた。
良い知らせなのか悪い知らせなのか全く解らなくて、あたしはもやもやと落ち着かない気分のままだ。
後半戦になると、相手チームの猛攻が始まる。
それまで0対0だったのが、先取点を取られてしまった。
このまま時間が来て試合が終わってしまったら、近藤くんはあたしに「大事な話」をしてくれないのだろうか。
ぎゅっと強く、あたしは手を合せ、組んだ。
お願い!
勝って!
近藤くん!
------------------------------
ピーとホイッスルの音がして、試合が終わる。
僕は「ふう」と大きく息を吐いた。
結果は、0対1。
完敗だ。
整列し、お互いに一礼を交わして、控え室で安田先生からの叱咤激励を受けて、僕ら3年生は無事、引退を果たした。
「はあ…」
我ながら溜め息が深い。
さっちゃんへの想いを伝えることは、どうやらもうできないようだ。
ここ最近ずっとそっけないままだった彼女はきっと、もう以前のような笑顔を僕に向けてはくれないだろう。
せめて試合にさえ勝っていれば…。
いや、過ぎたことだ。
いっそすっぱり諦めよう。
控え室で着替え終え、僕はさり気なく部員たちと離れて、とぼとぼと家路を歩き出す。
空は曇っていて、今にも泣き出しそうだ。
「はあ…」
何度目かになる溜め息を、僕はまたついた。
つん。
と、肘あたりの袖を後ろから引っ張られる。
「え?」
振り返ると、僕は目を大きく見開いた。
「さっちゃん…!?」
「その…、試合には負けちゃったけど、大事な話って、なんなのか気になっちゃって…」
さっちゃんはうつむいたまま、小声でそう言った。
突然の展開に、僕はゴクリと息を飲み込む。
これは、神様がくれた最後のチャンスだ!
落ち着け!
落ち着くんだ近藤直人!
しっかりと、さっちゃんに気持ちを伝えるんだ!
好きだって言うんだ!
僕は意を決し、さっちゃんの顔を真正面から見据える。
「さっちゃん、大事な話っていうのはね? 僕…」
やはりなかなか切り出せない。
僕はぎゅっと強く目をつぶった。
「僕…! す、好きな人がいるんだ!」
「あはは」
この場にふさわしくない笑い声。
目を開けると、さっちゃんは目に涙をいっぱいに溜めて微笑んでいる。
「そんなことだろうと思った」
「え?」
「綺麗な人だもんね」
「え? なにが?」
「ああいう大人な女の人、いいなあ。近藤くんったら、隅に置けないんだから」
「え? いや…」
「末永くお幸せにね」
その言葉に、僕の胸がズキンと傷んだ。
そうか…。
さっちゃんは、やっぱり僕のことを避けているんだ。
考えてみたら、さっちゃんがクマのぬいぐるみをわざわざ隠していたのだって、僕に正体を隠したいからじゃないか。
そうだよ。
まだ小さかったあの頃と今は違うんだ。
今のさっちゃんは僕に恋なんてしてないし、むしろ僕が想いを寄せたって迷惑なだけなんだ…。
僕は精一杯の笑顔を作る。
「いやあ、参ったなあ。もう逢えなくなるみたいな言い方しないでよ。これからもさ、なんかあったらまたみんなで遊ぼう? 僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
「そ、そうだよね!」
さっちゃんの瞳からポロポロと涙がこぼれた。
にもかかわらず、彼女は満面の笑みを浮かべている。
「あたしたち、友達、だもんね! これからもまた、あ、遊ぼうね!」
さっちゃんがぐいっと涙を拭う。
「さよなら」
そのまま振り返ると、さっちゃんは駆け出し、行ってしまった。
ポツポツと雨が降り出して、やがて大降りになる。
僕はそれでも、その場からしばらく動けない。
最終話「昨日からの卒業」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/462/
------------------------------
参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
第2話・募る想い
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
------------------------------
「もしもし? あの、あたし近藤くんと同じクラスの畑中っていいます」
「あ、さっちゃん? 僕だよ」
この僕の返しに、妹がやたらと表情を輝かせた。
一体誰に似たのか、妹は好奇心いっぱいに僕の持つ受話器に耳をくっつけようと頬を寄せてくる。
聞き耳を立てられているとも知らず、さっちゃんが言った。
「あ、近藤くん? 今、電話、平気だった?」
「もちろん! あ、ちょっと待ってて」
しっしと妹を追っ払おうとしたけれど、こいつはどうにもしつこく、そばを離れようとしない。
さっちゃんとの会話を聞かれたくないから僕が部屋の隅まで避難したいところだけど、電話のコードが長くないからそれもできない。
仕方ない。
落ち着かないけど、妹を振り切ることは諦めよう。
「あ、ごめんね、さっちゃん。もう大丈夫」
「あ、うん。突然なんだけどね? 近藤くん、今日って何か予定ある?」
「え? 今日? 今からってこと?」
「うん。優子ちゃんや春樹くんと一緒に、うちで勉強会しようってことになって…」
「さっちゃん家で!?」
「うん。狭いアパートだけど、もしよかったら」
さっちゃんの家に遊びに、いや。
勉強しに行けるだって!?
高まる鼓動を抑え、僕は極めて自然体を装う。
「いやあ! 奇遇だなあ! 僕も今から猛勉強しようと思ってたんだよ! でも僕、集中力が続かないからなあ! 丁度誰かと一緒に勉強できたらなあーって思っていたんだよ! いや実にタイミングがいい!」
「本当?」
受話器の向こうで、さっちゃんが嬉しそうな声を出した。
「じゃあ、これから4人でお勉強、しよ」
「しますとも!」
満面の笑みを浮かべながら、「じゃあ後ほど!」と約束をし、受話器を置く。
「はあ~」
突然舞い降りた幸運に、ついだらしなく口元が緩む。
力強くほっぺたをつねってみた。
「痛い…。夢じゃない…」
「ねえねえ! お兄ちゃん!」
妹が僕を揺さぶる。
「今の人って誰!? お兄ちゃんの彼女!?」
「ち、違うよ!」
「海に一緒に行った人でしょ!?」
「いや、そ、そうだけどさ」
「今からデート!?」
「バ…! なに言ってんだ! さっちゃんとはそんな仲じゃ…!」
「ふうん。さっちゃんていうんだ?」
「う、うるさいな!」
妹を振り切り、自分の部屋に足を向ける。
「に、兄ちゃんこれから勉強会なんだ! そんな浮かれていられないよ!」
教科書や参考書、ノートに筆記用具を鞄に詰め込む。
せかせかと足早に玄関を開け、僕は制服姿のまま飛び出した。
「きゃ」
「あ、ごめんなさい!」
うちは玄関前がそれほど広くないアパートだ。
家を出た瞬間、隣に住むお姉さんとぶつかってしまった。
「ンもう」
どこか色っぽく、お姉さんが茶色い髪を耳にかける。
「気をつけなさい? ボウヤ」
「は、はい! す、すみません!」
このお姉さん、いっつも薄着だし、胸元とか太ももとか、肌を露出させる服ばかりを着ている。
目のやり場に、実に困る。
「ンフフ。これからデート?」
「い、いえ、そういうわけじゃ…!」
「照れちゃって、可愛い」
「そ、そんな! か、からかわないでください!」
僕は鞄を背負い直し、「失礼します!」と慌ててアパートを飛び出した。
------------------------------
「そ、そうだ! 近藤くんが来る前に、ベスを隠さなきゃ!」
3歳の頃、なおくんから貰ったクマのぬいぐるみ。
すっかりくたびれてしまった宝物を、あたしは顔の高さまで掲げる。
「ごめんね、ベス。ちょっと押入れに隠れてて」
もし近藤くんにベスを見られたら、あたしが幼馴染だったと気づかれてしまうだろう。
あたしが昔の婚約者だったってことを解ってもらいたい気持ちと、今はまだ隠しておきたいという照れ。
しばらくは恥じらいの感情のほうが先立ちそうだ。
フスマを開け、畳まれた布団の上にそっとベスを寝かせた。
友人たちを招き入れる。
あたしの部屋は一気に賑やかになって、とても勉強をしているような雰囲気ではない。
「ちょっと春樹、あたしの消しゴム勝手に持っていかないでよ」
「いいだろ? 少しぐらい貸せよ」
「少しぐらいって、あんたすぐ無くすじゃない。ホントだらしないんだから」
「なんだと!?」
「なによ!?」
優子ちゃんと春樹くんの微笑ましいやり取りを見て、あたしと近藤くんは目を合わせると、お互い少し肩をすぼめた。
いつものことながら、2人のケンカはさらにエスカレートしてゆく。
「だいたい佐伯! お前だって人のこと言えねえじゃねえか!」
「なんでよ!?」
「俺の部屋でテレビのチャンネル変えようとして、一生懸命電話の子機をテレビに向けてたクセによ!」
「ちょ…! そ、それは関係ないでしょ今!?」
「あれえ? テレビが反応しなーい! このリモコン電池切れてるよ春樹ー?」
「う、うるさいわね!」
「新しい電池どこー?」
「もー! やめてよ!」
「きゃ! いきなり着信音があ! これ、電話の子機じゃなーい!」
「い、いい加減にしなさいッ!」
優子ちゃんの鉄拳が炸裂する。
春樹くんは「ぐあッ」と悲痛な叫びを上げ、吹っ飛ばされた。
押入れに激突し、フスマが外れる。
「あ!」
と、思わず叫ぶ。
衝撃でベスが落ち、春樹くんの頭の上にストンと乗った。
「なんだこりゃ」
「あ、あの…!」
あたしはあたふたとベスを取り上げ、それを抱きしめたままみんなに背を向ける。
そのまま部屋を飛び出して、ベスを台所に隠した。
戻ると、3人とも頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
あたしは「あはは」と指をもじもじさせ、「じゃ、勉強の続きしよっか?」と強引に誤魔化す。
…という一連の出来事をハガキに書いて、あたしはベットにごろりと横たわった。
このハガキはあとでポストに投函しておこう。
「あなたに降りかかった面白ハプニング」のコーナーに採用されるかなあ。
あたしは仰向けのまま、ベスを両手で持ち上げる。
すっかりくたびれた子グマのつぶらな瞳が、あたしを見つめた。
「ねえベス? 近藤くんに、ベスのこと見られちゃったかなあ? どうしよう。あたしが幼馴染のさっちゃんだって、気づかれちゃったかなあ? べスー、どうしよ~。近藤くん、今頃どんなこと考えてのかなあ?」
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「はっくしょん!」
誰か僕の噂でもしているのか、帰り道で大きなクシャミが出た。
鼻をすすって、僕は遠い遠い昔を回想をする。
「さっちゃん、これ! プレゼント! 大事にしてね」
「なおくん…」
「また逢えるよね? それまで寂しいと思って、ぬいぐるみ」
「なおくん! 大好きだよ! また逢おうね! 絶対絶対逢おうね!」
「うん! 待ってるよ! 元気でね! …元気でね、さっちゃん!」
さっちゃんの部屋で見たあのクマのぬいぐるみは、僕が幼馴染に贈った物にとてもよく似ていた。
いや、似ていたどころか、同じ物だったように思う。
十数年経ったかのような、あの古びた感じ。
幼馴染のさっちゃんは引越しをして行ったけど、もしかして戻ってきていたのではないだろうか。
こっちのさっちゃん、畑中早苗さんは去年転校してきたって言っていたし、もしかして同一人物なんじゃ…?
アパートの階段を登る。
もうすぐ家だ。
「早苗の『さ』は、さっちゃんの『さ』、か…」
ぶつぶつとつぶやいていると、突然目の前が真っ暗になって、柔らかい感触が顔を覆った。
「あら」
女の人の声だ。
びっくりして身を引くと、またしてもお隣さんだった。
お姉さんの胸に、僕は顔からぶつかってしまったらしい。
「す、すみません!」
「フフ」
お姉さんが口元のホクロをわずかに吊り上げる。
「また何か考え事してたの? ダメよ? ちゃんと前を見ないと」
「あ、はい、すみませんでした!」
「あらあら。堅くなっちゃって、緊張してるのかしら?」
「いえ! そんなことは…!」
「フフ。ブレザーのネクタイ、ズレてるわよ?」
「え、あ…」
「お姉さんが直して、あ、げ、る」
お姉さんが僕の首元に両手を添え、少しかがむ。
僕はドギマギと気を付けの姿勢になり、固まった。
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あたしは1冊のノートを手に、公園で花を摘んだ。
いつか生徒手帳を届けに行ったことがあるから、近藤くんの家がどこにあるのかは解る。
ただ、つい今しがたベスを見られてしまったせいで、逢いに行きたくても抵抗があった。
さっきの勉強会で、近藤くんが忘れていったノート。
学校で渡してもいいんだけど、せっかくの逢うチャンスだ。
この機会を無駄にしたくない気持ちもあった。
あたしは花びらを1枚1枚引き抜いてゆく。
「ノートを届けに行く、行かない、行く、行かない…」
こうしてあたしは今、近藤くんのアパートの前に立っている。
心の中で呪文のように唱えた。
「さっきのベスを見て、近藤くんが何か思い出してしまったかどうかだって、逢って反応を見たら解るでしょ? 勇気出せ、早苗!」
階段を登る。
そこで、あたしはこの世で最も見てはいけないものを見たような心地がした。
直立不動でこちらに背中を向けている近藤くん。
その正面に年上らしい女の人がかがんでいて、近藤くんに顔を寄せている。
顔を話すと彼女は「ちゃんとしなきゃダメよ」などと言った。
まさか、キス、してたの…?
あたしはすっかり動揺してしまって、ノートを落とし、その場を走り去る。
「あ、さっちゃん!」
背後から、近藤くんの声が聞こえた。
りんりんりん。
夜になって、あたしの家の電話は何度も鳴る。
「もしもし、さっちゃん!? 僕だよ! 話を聞いて!」
「知らない!」
あたしはその都度電話を切って、そして泣いた。
近藤くんに恋人がいたなんて…。
脳裏には、口づけを交わすさっきの光景が繰り返し映し出されている。
思い出したくないのに…。
りんりんりん。
再び着信を知らせるベル。
あたしは苛立って、乱暴に受話器を取った。
「しつこいわね! 知らないって言ってるでしょ!?」
「ん? 何を知らないんだ?」
近藤くんじゃない声に一瞬にして顔が青くなった。
「や、安田先生!?」
「おう。畑中か?」
「は、はい! すみませんすみません!」
うちの担任の先生だった。
「悪いな突然。今、電話平気か?」
「は、はい! 大丈夫です!」
「そうか。いきなりで悪いんだがな、畑中、次の日曜、なんか予定あるか?」
「え? 日曜、ですか?」
「ああ。先生サッカー部の顧問やってるだろ?」
「はい」
「今度の日曜、3年生の引退試合なんだ。なんだが、マネージャーが1人来られなくなってな。お前、うちの部の近藤や春樹なんかとも仲いいだろう? もし空いてたら是非手伝ってほしいと思ってな。どうだ?」
「3年生の、引退試合、ですか…」
近藤くんの顔が。
さっきのキスシーンが再び浮かんで、胸がズキンと痛む。
「どうした? どこか具合が悪いのか?」
「いえ、そういうわけじゃ…」
「先生、最近何かと悩みを打ち明けられる機会が多くってなあ~」
受話器の向こうで、先生が微笑んだような気がした。
「畑中。あまり自分の中だけに溜め込むなよ? 誰かに打ち明けるだけでも、ずいぶん気が楽になるもんだ。先生でもよかったら、いつでも待ってるからな」
とても優しいその声に、あたしはついに泣き出して、受話器をぎゅっと強く握り込む。
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日曜日。
そわそわと、僕はさっちゃんの家の前で待つ。
どうにかして誤解を解かないと。
先日かかってきた先生からの電話のおかげで僕はチャンスを得ていて、それで今ここにいる。
「引退試合の日、急遽畑中にマネージャーを頼んだんだ。近藤お前、悪いんだが、日曜、畑中を迎えに行ってくれないか?」
ようし、今日こそ話を聞いてもらうぞ!
そして、好きだって気持ちを伝えよう。
こないだ気づいたんだ。
やっぱりさっちゃんは、3歳の頃に婚約をした運命の人だった。
そのことが解ったおかげで、僕は自分の気持ちを知ることもできたんだ。
僕はゴクリと喉を鳴らした。
まず、なんて切り出そう?
「やあさっちゃん! おはよう! さ、行こっか!」
そんなのダメだ、軽すぎる。
「本日はマネージャーを引き受けてくださり、誠にありがとうございます。さ、参りましょう」
ダメダメ!
時代劇じゃないんだから!
「ごめんね、今日はよろしくお願いね? 悪いね、日曜に。ホントすみません」
卑屈すぎる。
「難しいなあ」
「…なにが難しいの?」
「うわおう! さっちゃん!?」
いつの間にか後ろにさっちゃんが立っていて、僕は小さく飛び上がった。
「お、おはよう!」
声をかけるがしかし、さっちゃんは何も返してはくれず、下を向いて黙ったままだ。
「い、行こうか」
試合会場までそのまま、僕らは言葉を交わすことはなかった。
このままじゃダメだ。
ユニホームに着替え、もうすぐキックオフ。
僕はさっちゃんをグラウンドの隅へと連れ出す。
「お願い! こっち来て!」
「…なあに?」
「お願いがあるんだ」
「…どんな?」
「僕の話を、ちゃんと聞いてほしい」
しかしさっちゃんは返事をしない。
構わず、僕は続けた。
「約束して? この試合に勝ったら、僕の話を聞いてくれる、って。その、大事な話だから」
さっちゃんからの返事を待たず、僕は踵を返し、グラウンドへと向かった。
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試合開始を告げるホイッスルが鳴り響く。
相手チームは強かった。
春樹くんの調子も良くないみたいだし、全体的にペースが掴めていないように、あたしには見えた。
近藤くんは、大事な話があるって言っていた。
良い知らせなのか悪い知らせなのか全く解らなくて、あたしはもやもやと落ち着かない気分のままだ。
後半戦になると、相手チームの猛攻が始まる。
それまで0対0だったのが、先取点を取られてしまった。
このまま時間が来て試合が終わってしまったら、近藤くんはあたしに「大事な話」をしてくれないのだろうか。
ぎゅっと強く、あたしは手を合せ、組んだ。
お願い!
勝って!
近藤くん!
------------------------------
ピーとホイッスルの音がして、試合が終わる。
僕は「ふう」と大きく息を吐いた。
結果は、0対1。
完敗だ。
整列し、お互いに一礼を交わして、控え室で安田先生からの叱咤激励を受けて、僕ら3年生は無事、引退を果たした。
「はあ…」
我ながら溜め息が深い。
さっちゃんへの想いを伝えることは、どうやらもうできないようだ。
ここ最近ずっとそっけないままだった彼女はきっと、もう以前のような笑顔を僕に向けてはくれないだろう。
せめて試合にさえ勝っていれば…。
いや、過ぎたことだ。
いっそすっぱり諦めよう。
控え室で着替え終え、僕はさり気なく部員たちと離れて、とぼとぼと家路を歩き出す。
空は曇っていて、今にも泣き出しそうだ。
「はあ…」
何度目かになる溜め息を、僕はまたついた。
つん。
と、肘あたりの袖を後ろから引っ張られる。
「え?」
振り返ると、僕は目を大きく見開いた。
「さっちゃん…!?」
「その…、試合には負けちゃったけど、大事な話って、なんなのか気になっちゃって…」
さっちゃんはうつむいたまま、小声でそう言った。
突然の展開に、僕はゴクリと息を飲み込む。
これは、神様がくれた最後のチャンスだ!
落ち着け!
落ち着くんだ近藤直人!
しっかりと、さっちゃんに気持ちを伝えるんだ!
好きだって言うんだ!
僕は意を決し、さっちゃんの顔を真正面から見据える。
「さっちゃん、大事な話っていうのはね? 僕…」
やはりなかなか切り出せない。
僕はぎゅっと強く目をつぶった。
「僕…! す、好きな人がいるんだ!」
「あはは」
この場にふさわしくない笑い声。
目を開けると、さっちゃんは目に涙をいっぱいに溜めて微笑んでいる。
「そんなことだろうと思った」
「え?」
「綺麗な人だもんね」
「え? なにが?」
「ああいう大人な女の人、いいなあ。近藤くんったら、隅に置けないんだから」
「え? いや…」
「末永くお幸せにね」
その言葉に、僕の胸がズキンと傷んだ。
そうか…。
さっちゃんは、やっぱり僕のことを避けているんだ。
考えてみたら、さっちゃんがクマのぬいぐるみをわざわざ隠していたのだって、僕に正体を隠したいからじゃないか。
そうだよ。
まだ小さかったあの頃と今は違うんだ。
今のさっちゃんは僕に恋なんてしてないし、むしろ僕が想いを寄せたって迷惑なだけなんだ…。
僕は精一杯の笑顔を作る。
「いやあ、参ったなあ。もう逢えなくなるみたいな言い方しないでよ。これからもさ、なんかあったらまたみんなで遊ぼう? 僕ら、ほら。友達、なんだからさ」
「そ、そうだよね!」
さっちゃんの瞳からポロポロと涙がこぼれた。
にもかかわらず、彼女は満面の笑みを浮かべている。
「あたしたち、友達、だもんね! これからもまた、あ、遊ぼうね!」
さっちゃんがぐいっと涙を拭う。
「さよなら」
そのまま振り返ると、さっちゃんは駆け出し、行ってしまった。
ポツポツと雨が降り出して、やがて大降りになる。
僕はそれでも、その場からしばらく動けない。
最終話「昨日からの卒業」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/462/
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
2011
December 23
December 23
第1話・再会
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
------------------------------
「早苗だから、さっちゃんって呼ばれてるの」
そのさっちゃんとはクラスが別々なので、一緒の班になれるなんてことはなかった。
僕は古いお寺や仏像なんかを見て回るのは嫌いじゃないんだけど、周りの友達はこういうのが退屈みたいだ。
「早く自由時間になんねーかなあ」
「まあまあ」
僕は親友の肩を叩き、なだめる。
「せっかくの修学旅行なんだからさ、そういうこと言わない言わない」
紅葉が綺麗な古都は今、日本ではどこでも見られる街並みに変わってしまっているけれど、僕は秋の涼しげな空気を目一杯に吸い込んだ。
宿泊先の旅館は雰囲気のある木造の建物で風情があるし、料理も凄く美味しくて、僕はとっても満足だ。
入浴時間が限られているけれど、温泉があるというのもポイントが高い。
「近藤! お前、ジャンケンに負けたんだから、みんなの布団引いてから来いよ」
「とほほ…」
「じゃ、俺ら先に行ってるからなー!」
慣れない作業だけど、どうにか人数分の寝床を用意して、僕はあたふたしながらようやく浴場へと向かった。
「いい湯だなあ~」
僕があまりにももたもたしてしまったからなのか、みんなはもう上がってしまった後のようだ。
大急ぎで来たんだけどなあ。
大浴場には僕以外誰も人がいなくて、なんだか貸し切りをしているようで贅沢でもあり、同時にこんなに広いにもかかわらず1人きりで入っていることを寂しくも思った。
「あれ?」
どうやら誰か来たらしい。
脱衣所からガヤガヤと声が聞こえる。
だけど、なんだか様子がおかしいぞ?
喧騒に違和感を覚えた。
「うわあ! 広~い!」
「あたしたちが1番乗りみたいねー」
女子たち!?
なってこったァ!
焦って来たせいで男湯と女湯を間違えた!?
どうしよう!?
みんな僕に気づかず、こっちに来る!
僕は忍び込んだ暗殺者のように気配を絶つと、そそくさと岩で出来たライオンの陰に隠れ、女子たちに背を向けると、口元から下を湯船に沈める。
「さっちゃん、胸大きい~」
「ちょ。ちょっと! やめてよう!」
嘘だろォ!?
さっちゃんまで居るのかよぉー!
またさらに見つかっちゃいけない要素が増えた。
僕はさらに水面に身を隠し、ぶくぶくと顔を沈める。
------------------------------
みんなでわいわいお風呂に入るのも楽しいんだけど、1人でゆったりする時間も好きだ。
きゃっきゃと騒ぐクラスメイトたちを眺めながら、あたしはどこかの岩陰でのんびりしようと浴場を見渡す。
あの口からお湯を出してるライオンの辺りでいいかな。
湯に浸かって、ゆっくりと奥へ。
しかし、そこには既に先客があった。
あたしと同じ発想をする人も、そりゃいるよね。
メガネを外しているのでぼんやりとしか見えない。
短めのショートカットにしているその人はよっぽど温泉が好きなのか、頭の上半分しか湯面に出しておらず、こちらに背を向けているようだ。
あたしはその隣で足を伸ばすことにした。
とてもリラックスできていることが、自分でも解る。
「気持ちいいね~」
と、隣に声をかけた。
「さっちゃん…!? いえ、ううん? そ、そうね。き、気持ちいいわ?」
自然に声をかけたら、不自然な声が返ってきた。
それはそれは見事な裏声で、あたしは一瞬押し黙る。
「ねえ、大丈夫? のぼせてるの?」
「いいええ。だ、大丈夫だわ?」
「だわ…? ねえ、平気? なんか耳まで赤くなってるみたいだけど」
「本当に平気ですわよ? お構いなく」
とても平気とは思えない声色だ。
どこかふらふらしているし、これは湯あたりを起こしているんじゃないかしら。
「ねえ、無理しないで、具合が悪かったら先に上がるんだよ?」
「上がれるもんならさっさと上がりた…! ううん、なんでもないわよ?」
様子どころか言葉遣いまでおかしい。
あれ?
そういえば…。
あたしの脳裏にちょっとした疑問が浮かぶ。
うちのクラス、ここまで髪の短い子、いたっけ…?
------------------------------
背後に来たさっちゃんがほんの少し黙ったから嫌な予感はしたんだ…。
「あなた、誰…?」
その言い方からして、今の僕、もの凄く警戒されてる。
誰かと訊かれても返す言葉がなくて、僕は黙り込むしかなかった。
さっちゃんが皆に顔を向けるような気配を、背後で感じる。
「ちょっとみんな! こっち来…!」
「わああ!」
慌てて僕は振り返り、さっちゃんの口を手で覆って塞いだ。
「んんー! ん? んン?」
「そう! 近藤だよ! お願いだから静かに!」
と、僕は声を抑えた。
「間違えて女湯に入っちゃって、出られないんだ!」
「ンー、うん」
「あ、ごめん」
さっちゃんの口から手をどけると、彼女は湯船の中の体を手で隠しつつ、僕に背を向けた。
僕も慌ててそっぽを向く。
さっちゃんが小声になった。
「本当に、近藤くん…? あたし今、メガネなくて…」
「残念だけど、本当に僕だよ。でも信じて。僕、本当にここが男湯だと思って…」
「男湯だったよ?」
「え?」
「ここ、時間帯で男女の入浴時間、変わるから」
「ああ!? そうだ! 忘れてた! 僕ジャンケンに負けたからそれで…!」
「しっ! 静かに!」
「あ、ごめん」
どうやらさっちゃんに嫌われずに済んだようでそこは一安心だけれども、でもまだまだピンチだ。
「さっちゃん、僕どうにか出たいんだけど、どうしよう…」
「ええっと、ちょっと待ってて!」
背中越しに水音が聞こえた。
さっちゃんが立ち上がった気配があって、僕はついドキッとしてしまった。
僕の真後ろには今、産まれたまんまの姿のさっちゃんが…!
ちゃぷちゃぷと彼女はどこかに行って、やがて遠くから大声がした。
「きゃあ! 滑ったあ! あ、あたしのメガネがー!」
どうやら彼女は転んだ振りをしてくれたらしい。
不器用ながらに演技をしてくれた。
「あはは! あんたってどうしていつも何もないところで転ぶのよー!」
「だってー!」
「メガネがなんて? 落としちゃったの?」
「うん、あっちに滑って行っちゃった、と思うんだけど」
「どっちどっちー?」
「あっちー!」
女子たちの目が浴場の片隅に行っているうちに、僕はそそくさと脱衣所へと早歩きをした。
助かった…。
------------------------------
「さっきのお礼がしたいんだけど」
夜、近藤くんがそう進言してくれた。
鼻にティッシュを突っ込んでいるけど、これはのぼせたせいで鼻血でも出したのだろう。
「どんなお礼がいいかなあ?」
「そんなのいいのに」
「いいからいいから! このままじゃ僕の気が済まないから! なんでもいいから、なんか言ってみてよ」
「そうだなあ」
考え込む。
あまり図々しいお願いじゃなくて、近藤くんも一緒に楽しめるようなことがいいよね。
「あ!」
思いついた。
うちの班の子たちがさっき「男子の部屋がどんな感じなのか見てみたいよね」などと盛り上がっていたのだ。
「あのね? 近藤くん、嫌だったら断ってね?」
「うん、なんでもいいよ。なに?」
「うちの班のみんなで、近藤くんたちの部屋に遊びに行っても、いい…?」
------------------------------
「そんなのいいに決まってるよ!」
間髪入れず、僕は力強く言い切っていた。
こうして消灯後の今、この部屋は夢のようなことになっている。
中には「女なんかに興味ねえよ」と強がっている男子もいたけれど、「興味なければ喋らなきゃいいさ」と軽く流した。
最初は誰もが何を訊ねて何を話したらいいのか判断できないみたいで、ぎこちなかった。
でも、自己紹介とかなんだかんだやっているうちに盛り上がって、時間はあっという間に過ぎてゆく。
本来だったら「俺今日は寝ねえから!」なんて断言した奴がぐーぐーといびきをかいたり、「うちのクラスで1番可愛いと思う女子って誰?」なんて普段なかなかできない話をしたりする時間帯だ。
ドアに1番近かったのは親友の春樹だ。
その春樹が何かに気づき、小さく叫ぶ。
「やっべ! 見回り来る! 安田先生だ!」
「マジ!?」
ただ起きているってだけでも怒られてしまうだろうに、今はよそのクラスの女子を連れ込んでしまっている。
これが先生に見つかったら反省文どころじゃ済まされない!
僕は咄嗟にさっちゃんの手を掴んだ。
誰かが慌てて電気を消し、部屋は真っ暗闇に。
物音からして、みんな布団に潜り込んだようだ。
僕はさっちゃん布団に引き入れる。
2人で頭から布団を被って息を殺した。
心臓の音が高まる。
なんでここまでドキドキするのだろう。
先生がガチャリとドアを開けて、この部屋を覗き込んでいるからか?
解らない。
シャンプーのいい香りが、すぐそこでするからか?
解らない。
布団の中で、さっちゃんが僕に抱きついてきているからだろうか?
解らなかった。
先生が去ったあとも、僕らは「気配を消すため」という名目で、しばらくそのままの体勢でいた。
------------------------------
あれから、前以上に近藤くんを意識するようになってしまい、彼を見かけても何も話しかけられなくて、あたしはずっとうつむいてばかりいた。
時間ばかりが過ぎてゆく。
あたしがメガネをやめてコンタクトをするようになった冬。
クリスマスもバレンタインも、あたしの期待するような出来事は起きなくて。
さらに時間が流れ、春。
近藤君が17歳の誕生日を迎えたときも、何もしてあげられなかった。
それでも同じクラスになれたらいいなあ、と密かに思っていたら、その願いが通じたらしい。
あたしたちは3年生で一緒になった。
そして、夏。
「僕の伯父さんが民宿やってて、何人かで行こうと思うんだ。さっちゃん、夏休みにどう?」
あたしはそれでようやく「行きたい」と、素直な笑顔を近藤くんに向けることができた。
------------------------------
ずっと変な意識をしていたせいでさっちゃんとなかなか話せなかったから、「安くしとくから友達でも連れておいで」と言ってくれた伯父さんに感謝感謝だ。
おかげで、彼女を誘ういいきっかけになった。
去年の修学旅行から全く接することができなかったツケを取り戻すかのように、僕らは海で大はしゃぎをした。
「あはは。待てー!」
「やだー!」
浜辺で鬼ごっこをしてさっちゃんを追いかけたり、
「何を書いてたの?」
「ううん! なんでもないっ!」
「いいじゃん、教えてよ」
さっちゃんが砂浜に何かしらの落書きをしていたことを執拗にからかったり。
「今日はこれに乗ろうよ」
僕が叔父さんからゴムボートを借りてきたのは、2日目のお昼だ。
台風が近いせいか波が荒ぶっているけれど、僕はこれにさっちゃんを誘って一緒に乗った。
少し沖に出る。
「きゃあ!」
突然の大波にボートが激しく揺れて、さっちゃんを海面へと放り投げる。
「あはは。大丈夫? さっちゃん」
手を差し延べるが、しかし。
さっちゃんはバシャバシャと水面をかき、暴れている。
まさかさっちゃん、泳げない!?
僕はさっちゃんを抱えようと、大慌てて飛び込む。
しかし、その判断は間違っていた。
溺れる人というのは必死だから、目の前に何かあったら無条件でしがみついてしまう。
正面から近づいてしまった僕はしたがって、さっちゃんに羽交い締めにされてしまい、そのまま一緒に溺れることとなってしまった。
「さっちゃ、ちょ…! 離し…!」
このままじゃ2人とも助からない!
息ができなくて、海水が鼻から口から入ってきて苦しい。
死ぬってこんなに辛いことなのか…!?
と思っていたら、僕を掴んでいた腕がふわりと離れる。
どうにかボートまで泳ぎ、掴まって一息つくと、僕は再び青ざめた。
「さっちゃん!」
彼女は、僕よりも先に気を失ってしまっていた。
ボートを浮きにし、ようやくさっちゃんを浜辺まで運んできた。
彼女は気を失っていて、このまま大事に至ってしまうのではないかと、僕らはてんやわんやだ。
成績優秀な伊集院くんや白鳥麗子さんといった頼り甲斐のあるクラスメイトがたまたま岩場を見に行って不在だったことも、タイミングが悪かった。
「どうしよう!?」
春樹に頼ると、あいつは断言をする。
「人工呼吸だ近藤!」
「そんなの、やったことないよ! 佐伯さんは!?」
女子は女子で「あたしだってないわよ! いいから早くやって近藤くん!」と、何故か僕に振る。
「そんな! 命が関わってるのに、僕なんかじゃ…! 春樹やってくれよ!」
「俺のほうがもっとわかんねえよ! 佐伯やれよ!」
「あたしはこの場で最もそういうのに詳しくないわよ! いいから近藤くん!」
「だ、だって! 無理だよ人工呼吸なんて! 春樹! 頼む!」
「そ、そうか。これも人命救助だ、し、仕方ねえ…。…あのさ、人工呼吸って、舌入れてもいいんだっけ?」
「やっぱり僕がやるよ春樹」
改めて、まじまじとさっちゃんを顔を見つめる。
彼女は目を閉じたままだ。
こんなときにそんなことを感じちゃいけないのは解ってる。
解ってはいるんだけど、人工呼吸、かあ。
言うまでもなく、それはマウス・トゥ・マウスだ。
唇に、唇をあてなくてはならない。
さっちゃんの唇に、僕の唇を…。
いやいやいかん!
そんな邪な発想を持つなんて不純だ!
これはキスじゃなくて、人命救助なんだから!
僕はさっちゃんの鼻を摘んで、口を近づける。
そんな僕の様子をまじまじと見つめる春樹と佐伯さんの視線を感じた。
あと1秒で、僕の唇はさっちゃんの唇と接触する。
というそのとき、
「あたし溺れてた!?」
ガバっとさっちゃんが起き上がり、彼女の額が僕の顔面を強打した。
「ぐあッ!」
遠のく意識の中、思う。
次に気を失うのは、どうやら僕のようだ。
------------------------------
優子ちゃんや春樹くんの話によると、近藤くんは溺れて気を失っていたあたしを助けようとしてくれたらしい。
それなのに、あたしが急に起き上がってしまったせいで…。
浜辺に立てたパラソルの下で、あたしは両膝を揃え、崩した正座のような姿勢で涼んでいる。
近藤くんの頭は、そんなあたしの太ももの上にあった。
「そのうち勝手に目を覚ますよ」
春樹くんはそう言って笑っていたけど、あたしは責任を感じてしまい、とても近藤くんを放って遊ぶ気になんてなれない。
近藤くんの寝顔は、なんだか無邪気な子供みたいで、男の子にこんなこと言っちゃいけないのかも知れないけど、可愛い。
茶色がかった短い髪を、少しだけ撫でてみた。
「あれ?」
近藤くんの左の肩に、傷のような跡があることに気づく。
正面や背中から見たら解らない角度だ。
これは確かに傷跡だった。
再び、幼かったあのときを思い出す。
風で飛ばされた帽子を取るために崖に上り、そこから落ちて左肩を怪我をしてしまった男の子…。
あたしの運命の人だった、なおくん。
近藤くんの下の名前は、直人…。
なおくん…。
「そんなまさか」
以前もなおくんイコール近藤くん説を勘ぐったことがあった。
あの時は冗談を思いついたような感覚だったけど、でも今は違う。
「んん~。…あれ? さっちゃん?」
近藤くんが目を覚ます。
「ご、ごめん! ずっと、その、膝枕、しててくれた…?」
「あ、ううん! こちらこそごめんね! あたしが勝手に溺れちゃっただけなのに」
「とんでもないよ!」
近藤くんが起き上がる。
「さっちゃんが無事でよかった~」
その笑顔は、間違いなく一緒だった。
幼少時代、あたしの帽子を取ってくれたときのなおくんの笑顔と、一緒だった。
「あの、近藤くん」
「ん? なに?」
「その肩って、怪我でもしたの?」
「あはは」
近藤くんは照れたように頭を掻いた。
「そうなんだ。子供の頃、崖から落ちてね」
「それって、何かを取りに登ったとかで?」
すると彼は目を丸くする。
「よく解ったね! なんで解ったの?」
間違いない。
この人だ。
この人、なおくん本人だったんだ。
あたしと将来を誓い合った、運命の人…。
…この一連のエピソードはハガキに書いて、いつものラジオ局に投稿しておこう。
誰にも話せない、あたしの秘密。
あの人に気づかれたら恥ずかしい。
でも、気づいてほしいから。
第3話「すれ違う想い」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/459/
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/457/
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「早苗だから、さっちゃんって呼ばれてるの」
そのさっちゃんとはクラスが別々なので、一緒の班になれるなんてことはなかった。
僕は古いお寺や仏像なんかを見て回るのは嫌いじゃないんだけど、周りの友達はこういうのが退屈みたいだ。
「早く自由時間になんねーかなあ」
「まあまあ」
僕は親友の肩を叩き、なだめる。
「せっかくの修学旅行なんだからさ、そういうこと言わない言わない」
紅葉が綺麗な古都は今、日本ではどこでも見られる街並みに変わってしまっているけれど、僕は秋の涼しげな空気を目一杯に吸い込んだ。
宿泊先の旅館は雰囲気のある木造の建物で風情があるし、料理も凄く美味しくて、僕はとっても満足だ。
入浴時間が限られているけれど、温泉があるというのもポイントが高い。
「近藤! お前、ジャンケンに負けたんだから、みんなの布団引いてから来いよ」
「とほほ…」
「じゃ、俺ら先に行ってるからなー!」
慣れない作業だけど、どうにか人数分の寝床を用意して、僕はあたふたしながらようやく浴場へと向かった。
「いい湯だなあ~」
僕があまりにももたもたしてしまったからなのか、みんなはもう上がってしまった後のようだ。
大急ぎで来たんだけどなあ。
大浴場には僕以外誰も人がいなくて、なんだか貸し切りをしているようで贅沢でもあり、同時にこんなに広いにもかかわらず1人きりで入っていることを寂しくも思った。
「あれ?」
どうやら誰か来たらしい。
脱衣所からガヤガヤと声が聞こえる。
だけど、なんだか様子がおかしいぞ?
喧騒に違和感を覚えた。
「うわあ! 広~い!」
「あたしたちが1番乗りみたいねー」
女子たち!?
なってこったァ!
焦って来たせいで男湯と女湯を間違えた!?
どうしよう!?
みんな僕に気づかず、こっちに来る!
僕は忍び込んだ暗殺者のように気配を絶つと、そそくさと岩で出来たライオンの陰に隠れ、女子たちに背を向けると、口元から下を湯船に沈める。
「さっちゃん、胸大きい~」
「ちょ。ちょっと! やめてよう!」
嘘だろォ!?
さっちゃんまで居るのかよぉー!
またさらに見つかっちゃいけない要素が増えた。
僕はさらに水面に身を隠し、ぶくぶくと顔を沈める。
------------------------------
みんなでわいわいお風呂に入るのも楽しいんだけど、1人でゆったりする時間も好きだ。
きゃっきゃと騒ぐクラスメイトたちを眺めながら、あたしはどこかの岩陰でのんびりしようと浴場を見渡す。
あの口からお湯を出してるライオンの辺りでいいかな。
湯に浸かって、ゆっくりと奥へ。
しかし、そこには既に先客があった。
あたしと同じ発想をする人も、そりゃいるよね。
メガネを外しているのでぼんやりとしか見えない。
短めのショートカットにしているその人はよっぽど温泉が好きなのか、頭の上半分しか湯面に出しておらず、こちらに背を向けているようだ。
あたしはその隣で足を伸ばすことにした。
とてもリラックスできていることが、自分でも解る。
「気持ちいいね~」
と、隣に声をかけた。
「さっちゃん…!? いえ、ううん? そ、そうね。き、気持ちいいわ?」
自然に声をかけたら、不自然な声が返ってきた。
それはそれは見事な裏声で、あたしは一瞬押し黙る。
「ねえ、大丈夫? のぼせてるの?」
「いいええ。だ、大丈夫だわ?」
「だわ…? ねえ、平気? なんか耳まで赤くなってるみたいだけど」
「本当に平気ですわよ? お構いなく」
とても平気とは思えない声色だ。
どこかふらふらしているし、これは湯あたりを起こしているんじゃないかしら。
「ねえ、無理しないで、具合が悪かったら先に上がるんだよ?」
「上がれるもんならさっさと上がりた…! ううん、なんでもないわよ?」
様子どころか言葉遣いまでおかしい。
あれ?
そういえば…。
あたしの脳裏にちょっとした疑問が浮かぶ。
うちのクラス、ここまで髪の短い子、いたっけ…?
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背後に来たさっちゃんがほんの少し黙ったから嫌な予感はしたんだ…。
「あなた、誰…?」
その言い方からして、今の僕、もの凄く警戒されてる。
誰かと訊かれても返す言葉がなくて、僕は黙り込むしかなかった。
さっちゃんが皆に顔を向けるような気配を、背後で感じる。
「ちょっとみんな! こっち来…!」
「わああ!」
慌てて僕は振り返り、さっちゃんの口を手で覆って塞いだ。
「んんー! ん? んン?」
「そう! 近藤だよ! お願いだから静かに!」
と、僕は声を抑えた。
「間違えて女湯に入っちゃって、出られないんだ!」
「ンー、うん」
「あ、ごめん」
さっちゃんの口から手をどけると、彼女は湯船の中の体を手で隠しつつ、僕に背を向けた。
僕も慌ててそっぽを向く。
さっちゃんが小声になった。
「本当に、近藤くん…? あたし今、メガネなくて…」
「残念だけど、本当に僕だよ。でも信じて。僕、本当にここが男湯だと思って…」
「男湯だったよ?」
「え?」
「ここ、時間帯で男女の入浴時間、変わるから」
「ああ!? そうだ! 忘れてた! 僕ジャンケンに負けたからそれで…!」
「しっ! 静かに!」
「あ、ごめん」
どうやらさっちゃんに嫌われずに済んだようでそこは一安心だけれども、でもまだまだピンチだ。
「さっちゃん、僕どうにか出たいんだけど、どうしよう…」
「ええっと、ちょっと待ってて!」
背中越しに水音が聞こえた。
さっちゃんが立ち上がった気配があって、僕はついドキッとしてしまった。
僕の真後ろには今、産まれたまんまの姿のさっちゃんが…!
ちゃぷちゃぷと彼女はどこかに行って、やがて遠くから大声がした。
「きゃあ! 滑ったあ! あ、あたしのメガネがー!」
どうやら彼女は転んだ振りをしてくれたらしい。
不器用ながらに演技をしてくれた。
「あはは! あんたってどうしていつも何もないところで転ぶのよー!」
「だってー!」
「メガネがなんて? 落としちゃったの?」
「うん、あっちに滑って行っちゃった、と思うんだけど」
「どっちどっちー?」
「あっちー!」
女子たちの目が浴場の片隅に行っているうちに、僕はそそくさと脱衣所へと早歩きをした。
助かった…。
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「さっきのお礼がしたいんだけど」
夜、近藤くんがそう進言してくれた。
鼻にティッシュを突っ込んでいるけど、これはのぼせたせいで鼻血でも出したのだろう。
「どんなお礼がいいかなあ?」
「そんなのいいのに」
「いいからいいから! このままじゃ僕の気が済まないから! なんでもいいから、なんか言ってみてよ」
「そうだなあ」
考え込む。
あまり図々しいお願いじゃなくて、近藤くんも一緒に楽しめるようなことがいいよね。
「あ!」
思いついた。
うちの班の子たちがさっき「男子の部屋がどんな感じなのか見てみたいよね」などと盛り上がっていたのだ。
「あのね? 近藤くん、嫌だったら断ってね?」
「うん、なんでもいいよ。なに?」
「うちの班のみんなで、近藤くんたちの部屋に遊びに行っても、いい…?」
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「そんなのいいに決まってるよ!」
間髪入れず、僕は力強く言い切っていた。
こうして消灯後の今、この部屋は夢のようなことになっている。
中には「女なんかに興味ねえよ」と強がっている男子もいたけれど、「興味なければ喋らなきゃいいさ」と軽く流した。
最初は誰もが何を訊ねて何を話したらいいのか判断できないみたいで、ぎこちなかった。
でも、自己紹介とかなんだかんだやっているうちに盛り上がって、時間はあっという間に過ぎてゆく。
本来だったら「俺今日は寝ねえから!」なんて断言した奴がぐーぐーといびきをかいたり、「うちのクラスで1番可愛いと思う女子って誰?」なんて普段なかなかできない話をしたりする時間帯だ。
ドアに1番近かったのは親友の春樹だ。
その春樹が何かに気づき、小さく叫ぶ。
「やっべ! 見回り来る! 安田先生だ!」
「マジ!?」
ただ起きているってだけでも怒られてしまうだろうに、今はよそのクラスの女子を連れ込んでしまっている。
これが先生に見つかったら反省文どころじゃ済まされない!
僕は咄嗟にさっちゃんの手を掴んだ。
誰かが慌てて電気を消し、部屋は真っ暗闇に。
物音からして、みんな布団に潜り込んだようだ。
僕はさっちゃん布団に引き入れる。
2人で頭から布団を被って息を殺した。
心臓の音が高まる。
なんでここまでドキドキするのだろう。
先生がガチャリとドアを開けて、この部屋を覗き込んでいるからか?
解らない。
シャンプーのいい香りが、すぐそこでするからか?
解らない。
布団の中で、さっちゃんが僕に抱きついてきているからだろうか?
解らなかった。
先生が去ったあとも、僕らは「気配を消すため」という名目で、しばらくそのままの体勢でいた。
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あれから、前以上に近藤くんを意識するようになってしまい、彼を見かけても何も話しかけられなくて、あたしはずっとうつむいてばかりいた。
時間ばかりが過ぎてゆく。
あたしがメガネをやめてコンタクトをするようになった冬。
クリスマスもバレンタインも、あたしの期待するような出来事は起きなくて。
さらに時間が流れ、春。
近藤君が17歳の誕生日を迎えたときも、何もしてあげられなかった。
それでも同じクラスになれたらいいなあ、と密かに思っていたら、その願いが通じたらしい。
あたしたちは3年生で一緒になった。
そして、夏。
「僕の伯父さんが民宿やってて、何人かで行こうと思うんだ。さっちゃん、夏休みにどう?」
あたしはそれでようやく「行きたい」と、素直な笑顔を近藤くんに向けることができた。
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ずっと変な意識をしていたせいでさっちゃんとなかなか話せなかったから、「安くしとくから友達でも連れておいで」と言ってくれた伯父さんに感謝感謝だ。
おかげで、彼女を誘ういいきっかけになった。
去年の修学旅行から全く接することができなかったツケを取り戻すかのように、僕らは海で大はしゃぎをした。
「あはは。待てー!」
「やだー!」
浜辺で鬼ごっこをしてさっちゃんを追いかけたり、
「何を書いてたの?」
「ううん! なんでもないっ!」
「いいじゃん、教えてよ」
さっちゃんが砂浜に何かしらの落書きをしていたことを執拗にからかったり。
「今日はこれに乗ろうよ」
僕が叔父さんからゴムボートを借りてきたのは、2日目のお昼だ。
台風が近いせいか波が荒ぶっているけれど、僕はこれにさっちゃんを誘って一緒に乗った。
少し沖に出る。
「きゃあ!」
突然の大波にボートが激しく揺れて、さっちゃんを海面へと放り投げる。
「あはは。大丈夫? さっちゃん」
手を差し延べるが、しかし。
さっちゃんはバシャバシャと水面をかき、暴れている。
まさかさっちゃん、泳げない!?
僕はさっちゃんを抱えようと、大慌てて飛び込む。
しかし、その判断は間違っていた。
溺れる人というのは必死だから、目の前に何かあったら無条件でしがみついてしまう。
正面から近づいてしまった僕はしたがって、さっちゃんに羽交い締めにされてしまい、そのまま一緒に溺れることとなってしまった。
「さっちゃ、ちょ…! 離し…!」
このままじゃ2人とも助からない!
息ができなくて、海水が鼻から口から入ってきて苦しい。
死ぬってこんなに辛いことなのか…!?
と思っていたら、僕を掴んでいた腕がふわりと離れる。
どうにかボートまで泳ぎ、掴まって一息つくと、僕は再び青ざめた。
「さっちゃん!」
彼女は、僕よりも先に気を失ってしまっていた。
ボートを浮きにし、ようやくさっちゃんを浜辺まで運んできた。
彼女は気を失っていて、このまま大事に至ってしまうのではないかと、僕らはてんやわんやだ。
成績優秀な伊集院くんや白鳥麗子さんといった頼り甲斐のあるクラスメイトがたまたま岩場を見に行って不在だったことも、タイミングが悪かった。
「どうしよう!?」
春樹に頼ると、あいつは断言をする。
「人工呼吸だ近藤!」
「そんなの、やったことないよ! 佐伯さんは!?」
女子は女子で「あたしだってないわよ! いいから早くやって近藤くん!」と、何故か僕に振る。
「そんな! 命が関わってるのに、僕なんかじゃ…! 春樹やってくれよ!」
「俺のほうがもっとわかんねえよ! 佐伯やれよ!」
「あたしはこの場で最もそういうのに詳しくないわよ! いいから近藤くん!」
「だ、だって! 無理だよ人工呼吸なんて! 春樹! 頼む!」
「そ、そうか。これも人命救助だ、し、仕方ねえ…。…あのさ、人工呼吸って、舌入れてもいいんだっけ?」
「やっぱり僕がやるよ春樹」
改めて、まじまじとさっちゃんを顔を見つめる。
彼女は目を閉じたままだ。
こんなときにそんなことを感じちゃいけないのは解ってる。
解ってはいるんだけど、人工呼吸、かあ。
言うまでもなく、それはマウス・トゥ・マウスだ。
唇に、唇をあてなくてはならない。
さっちゃんの唇に、僕の唇を…。
いやいやいかん!
そんな邪な発想を持つなんて不純だ!
これはキスじゃなくて、人命救助なんだから!
僕はさっちゃんの鼻を摘んで、口を近づける。
そんな僕の様子をまじまじと見つめる春樹と佐伯さんの視線を感じた。
あと1秒で、僕の唇はさっちゃんの唇と接触する。
というそのとき、
「あたし溺れてた!?」
ガバっとさっちゃんが起き上がり、彼女の額が僕の顔面を強打した。
「ぐあッ!」
遠のく意識の中、思う。
次に気を失うのは、どうやら僕のようだ。
------------------------------
優子ちゃんや春樹くんの話によると、近藤くんは溺れて気を失っていたあたしを助けようとしてくれたらしい。
それなのに、あたしが急に起き上がってしまったせいで…。
浜辺に立てたパラソルの下で、あたしは両膝を揃え、崩した正座のような姿勢で涼んでいる。
近藤くんの頭は、そんなあたしの太ももの上にあった。
「そのうち勝手に目を覚ますよ」
春樹くんはそう言って笑っていたけど、あたしは責任を感じてしまい、とても近藤くんを放って遊ぶ気になんてなれない。
近藤くんの寝顔は、なんだか無邪気な子供みたいで、男の子にこんなこと言っちゃいけないのかも知れないけど、可愛い。
茶色がかった短い髪を、少しだけ撫でてみた。
「あれ?」
近藤くんの左の肩に、傷のような跡があることに気づく。
正面や背中から見たら解らない角度だ。
これは確かに傷跡だった。
再び、幼かったあのときを思い出す。
風で飛ばされた帽子を取るために崖に上り、そこから落ちて左肩を怪我をしてしまった男の子…。
あたしの運命の人だった、なおくん。
近藤くんの下の名前は、直人…。
なおくん…。
「そんなまさか」
以前もなおくんイコール近藤くん説を勘ぐったことがあった。
あの時は冗談を思いついたような感覚だったけど、でも今は違う。
「んん~。…あれ? さっちゃん?」
近藤くんが目を覚ます。
「ご、ごめん! ずっと、その、膝枕、しててくれた…?」
「あ、ううん! こちらこそごめんね! あたしが勝手に溺れちゃっただけなのに」
「とんでもないよ!」
近藤くんが起き上がる。
「さっちゃんが無事でよかった~」
その笑顔は、間違いなく一緒だった。
幼少時代、あたしの帽子を取ってくれたときのなおくんの笑顔と、一緒だった。
「あの、近藤くん」
「ん? なに?」
「その肩って、怪我でもしたの?」
「あはは」
近藤くんは照れたように頭を掻いた。
「そうなんだ。子供の頃、崖から落ちてね」
「それって、何かを取りに登ったとかで?」
すると彼は目を丸くする。
「よく解ったね! なんで解ったの?」
間違いない。
この人だ。
この人、なおくん本人だったんだ。
あたしと将来を誓い合った、運命の人…。
…この一連のエピソードはハガキに書いて、いつものラジオ局に投稿しておこう。
誰にも話せない、あたしの秘密。
あの人に気づかれたら恥ずかしい。
でも、気づいてほしいから。
第3話「すれ違う想い」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/459/
------------------------------
参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
2011
December 17
December 17
どうやら2回で、僕のプロポーズは成功したみたいだ。
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
「なんか男らしくないー」
それならと、僕は僕なりに頭を捻る。
じゃあ、これならどうだろう?
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
あの頃は毎日のように遊んでいたっけ。
僕の初恋はとても早くて、当時はまだ3歳だった。
お相手は近所に住む同い年の子で、名前はさっちゃん。
黒いふわふわの髪が印象的な、明るい女の子だ。
マセているというか、あの時は子供ながらに相思相愛で、結婚の約束までしてたっけ。
「あたしが16歳になったら結婚しよー!」
「ダメだよ、さっちゃん。男は確か、18歳にならないと、結婚できないんだよ」
「じゃあ、なおくんが18歳になったらね!」
「うん!」
「いつなるの?」
「えっとね、えっとね、今3歳だから、ずっと先の3月!」
「どんぐらい先?」
「わかんない。18歳になったら!」
それで、近所の大桜の根元に2人で作った婚約指輪を埋めたんだった。
懐かしいなあ。
今もまだ埋まっているんだろうか。
さっちゃんは、元気にしてるかなあ。
------------------------------
なおくん、今頃どうしてるのかなあ。
凄くカッコよくなってたりして。
あの頃、あたしのせいで肩を大怪我しちゃってたけど、傷になってないかな。
女の子ってゆうのはどんなに幼くても女の子だ。
まだ3歳だったけど、あたしはそのときからお洒落するのが大好きで、いつもお気に入りの帽子を被っていた。
なおくんという同い年の男の子のことが大好きで、その帽子も彼のために身に付けていたものだ。
当時、あたしたちは両想いで、今となっては恥ずかしいんだけど、いつでも一緒にくっついて遊んでた。
公園なんかにも行ったし、近所の高校の裏に丘があって、そこでもちょくちょく探検ごっこしてたっけ。
桜の花びらがまるで大雪みたいに降ってて、凄く綺麗だった。
「あっ!」
突然吹いた風に、お気に入りの帽子が飛ばされる。
帽子はふわふわと空に上って、やがてゆっくりゆっくり、木の葉みたいに右に左にと揺られながら落ちてきた。
崖から突き出た岩に、ふわっと帽子が着地して、あたしは泣き出しそうになる。
大人でも手が届かないぐらいの高さに、帽子が引っかかってしまったからだ。
「ちょっと待ってて、さっちゃん」
なおくんが迷うことなく崖にしがみついた。
「いいよう! なおくん、誰か呼ぼうよう!」
「大丈夫! すぐ取るから待ってて!」
落ちたら死んじゃう!
なんて、今となっては有り得ない危機感を、その時は持ったものだ。
それでも当時は幼いながらも真剣に心配してて、あたしはずっと声を張り上げ続けた。
「もういいよう! なおくん! 降りてきてよう!」
「平気平気! 落ちるわけな…!」
そして彼は落ちた。
なおくんは帽子を取るときに手を伸ばしすぎたせいで、バランスを崩してしまったのだ。
なおくんの左肩から血が滲んでいるのを見て、あたしは帽子のことなんかどうでもよくなって、大泣きしながら大人の人を呼びに走り回った。
何針縫ったとかなんとか。
後日になって、親がお詫びのために、あたしと一緒になおくんの家まで行ったんだったなあ。
なおくんは怪我をしたにもかかわらず、いつも通りの笑顔で、「はいこれ!」って帽子を返してくれた。
あたしたちは絶対に結婚するんだって、お互い決めてて、それは運命なんだって当たり前のように思ってて…。
でも、そうじゃなかった。
あたしのパパが転勤することになって、この町を引っ越さなきゃいけなくなった。
「なおくん、ごめんね。ごめんね」
「やだ! さっちゃんが遠くに行っちゃうの、やだよ! いつか帰ってくる?」
「わかんない…」
「じゃあ僕が18歳になっても結婚できないじゃん! さっちゃんなんて、嫌いだ!」
「なおくん…」
あれが最後の大喧嘩だったなあ。
向かい合わせになった電車の席に座り、あたしはママの横でしょんぼりと下を向いていた。
この町を出ることなんかよりも、大好きななおくんにもう逢えないことと、そのなおくんに嫌われてしまったことが悲しくて悲しくて、とてもじゃないけど顔を上げることができなかった。
目を閉じると、今にもなおくんの声が聞こえてきそうな気がする。
「さっちゃーん!」
そう。
なおくんはいつもあたしの名を呼んでくれてた。
「さっちゃーん!」
よほどなおくんに逢いたいのか、錯覚の声が大きくなってきているような気がする。
「さっちゃーん!」
え?
本当に聞こえてる…?
車窓を押し上げ、身を乗り出す。
そこには、息を切らせたなおくんの姿が。
「なおくん!? なんで!?」
「さっちゃん、これ!」
なおくんが手渡してくれたのは、茶色いクマのぬいぐるみだ。
「プレゼント! 大事にしてね」
「なおくん…」
「また逢えるよね? それまで寂しいと思って、ぬいぐるみ」
「なおくん! 大好きだよ! また逢おうね! 絶対絶対逢おうね!」
「うん! 待ってるよ! 元気でね! …元気でね、さっちゃん!」
発車を知らせるベルがなって、やがて電車が進み始める。
なおくんは、電車の速度に合わせて駆け足になった。
あたしも座席から降りて、車内を進行方向とは逆に走り出す。
手を、大きく大きく振りながら。
あれから14年、かあ。
懐かしいなあ。
今になって彼のことを思い出す理由が、あたしにはあった。
「間もなく~、桜ヶ丘~、桜ヶ丘~」
またまたパパの都合で、あたしたち一家は元の町、この桜ヶ丘に戻ってくることになったのだ。
さすがに街並みは昔のままじゃない。
なおくんの家も、どの辺りなのか思い出せないし、すぐに見つかるとも思えない。
けど、逢えたらいいな。
なんてことを葉書に書き連ね、ポストに投函する。
これがラジオに採用されて、運命の人に聴いてもらえますようにと祈りを込めて。
あたし、帰ってきたよ、なおくん。
------------------------------
「ちょ、やめてくださいっ!」
「ああ~ん? いいじゃねえかよ~? ちょっと付き合えよ、ね~ちゃ~ん、コラァ~」
なんだか穏やかじゃない声を聞いたような気がして、反射的に僕はビルとビルの間を覗き込んだ。
思わず息を呑む。
女の子が、2人組の不良に絡まれているじゃないか!
「お茶しに行こうぜ~? カワイコちゃ~ん。あっあ~ん?」
「やめてください! は、離して…!」
女の子は壁に背を付けていて、2人がそれに覆いかぶさるような体勢になっている。
不良の片方が彼女のメガネを取って地面に放る。
「ちょ…! なにするんですか!?」
「言うこと聞かねえと、もっと酷いぜ~? コラァ~」
は、早く止めに入らないと!
僕は震える足をガクガクさせながら前に出した。
「や、やめなよ! 嫌がってるじゃないか!」
「ああ~ん?」
不良たちが僕に注目する。
このままどうにか2人をおびき寄せて、女の子が逃げられるようにしないと…!
僕はごくりとツバを飲んだ。
「嫌がってるのを無理矢理連れて行くのは、よくないよ」
「なんだあ? テメー、生意気じゃねえかコラァ!」
「ぶっ飛ばすぞコラァ!」
胸ぐらを掴まれ、壁に押し付けられる。
横目をやると、女の子は胸の前で手を組みながら、その場でおろおろと佇んでいる。
なにやってんだ!
そのままどっかに逃げてくれ!
「テメー! よそ見してんじゃねえぞコラァ!」
僕を壁に押し付けている男が拳を振り上げた。
ばきっ!
という音が頭の中に響いて、僕は地面に尻餅を付く。
「いてて…」
「カッコ付けてっからそういう目に合うんだコラァ!」
「西高の風神テツと雷神カズをナメんじゃねえぞコラァ!」
そのとき、「ピー!」と甲高い高音が鳴り響く。
「こらー! お前ら、そこで何やってる!?」
お巡りさんだ!
助かった!
不良たちがうろたえる。
「やっべえ! ポリ公だ!」
「お、覚えてやがれ!」
警察官に追われ、不良たちはどこかに走り去っていった。
「あの…」
胸の前で手を組んだまま、女の子がこちらに歩み寄ってくる。
彼女はハンカチを取り出すと、それをおずおずと僕に差し出してくれた。
「痛い、ですよね? すみませんすみません」
「いやいや、僕は大丈夫。それより、君は? 乱暴なこと、されなかった?」
「あ、あたしは大丈夫です」
「そっか、ならよかった…」
女の子を見ると、彼女はさっき外されたメガネを拾ったらしい。
いつの間にか分厚くてまん丸なメガネをかけている。
かなり目が悪いようだ。
「痛く、ないですか?」
「大丈夫大丈夫!」
差し出されたハンカチで僕は口元を拭い、よろよろと立ち上がる。
「あの、ありがとう、ございました」
うつむいたまま、彼女は小声でそう言った。
自分のせいで僕が殴られてしまったのだと、責任を感じているんだろう。
暗い声色だった。
「大丈夫だよ、僕は。あ、ごめん。ハンカチ、汚しちゃったね。洗って返すよ」
「いえ! 大丈夫です!」
あまりに強く言い切られてしまい、ついハンカチをそのまま返す。
じわじわと、危機が去ったことを実感した。
なんだか安心してしまい、僕は思わず本音を口にする。
「無事に済んでよかった。…けど、怖かった~」
その一言に彼女はクスリと笑い、やがて僕らは2人で大笑いした。
------------------------------
「あの、お名前、教えてください」
訪ねると彼は、
「いやいや、そんな! 名乗るほどの者じゃないよ! たいしたことできなかったしね」
そう遠慮して、そそくさとどこかに行ってしまった。
「あ、待ってくだ…!」
しかし言うのが遅くて、彼の後ろ姿はあっという間に雑踏へと消えた。
「なんでもっとちゃんとお礼言えなかったのよ~! あたしのばか~! …あれ?」
さっき彼が転んでいたところに、何か落ちてる。
なんだろう?
拾い上げてみる。
それは生徒手帳だった。
手帳には見覚えがある。
あたしと同じ、桜ヶ丘学園の生徒手帳だからだ。
彼のかも知れないと思って中を開くと、案の定。
優しげな目をしたあの人が写っている。
「近藤、直人…?」
まさかね。
あの人が実はなおくんだった、なんて話が出来すぎてる。
あたしはクスリと笑って、歩き出す。
手帳にある住所に向かって、さっきのヒーローに落し物を届けるために。
------------------------------
生徒手帳を届けてくれた彼女は畑中早苗と名乗った。
「わざわざ、ありがとう」
「いえ、とんでもないです!」
彼女はあたふたと両手をバタバタ降って、その振動でズレたメガネを慌ててかけ直す。
「助けてもらったのに、ちゃんとお礼できなくてすみません!」
「そんな! 気にしないでよ。なんだか僕のほうが恐縮しちゃうからね」
「あ、はい! そうですよね!? すみません!」
「いやいやいやいや」
「じゃああたし、これで失礼しますっ! さっきは本当にありがとうございました!」
ガバッと勢い良くおじぎをして振り返ると、そのまま走って、彼女は行ってしまった。
とっても慌ただしい子だなあ、とその時は思ったものだ。
本来ならこの縁はここで終わるんだろうけど、でもそうじゃなかった。
2年生の秋。
印象的なメガネを廊下で見かけ、ふと立ち止まる。
「あ、あの時の…」
廊下で同時に口をポカンと開け、しばらく2人とも固まってたっけ。
「桜ヶ丘の生徒だったんだ」
と、僕。
すぐ隣の教室に畑中さんがいたことを、当時の僕は知らなかったのだ。
「あたし、転校してきたばかりなんです」
「あ、そうだったんだね」
廊下の真ん中で彼女は指をもじもじと絡ませ、うつむいていた。
そんな時、次の授業を知らせるチャイムの音が。
「あ、教室に戻ら…、きゃあ!」
焦って急ぎ足になったからなのか、彼女は何もない床につまずいて転んだ。
その反動で、畑中さんのメガネが落ちる。
「大丈夫!?」
手を貸すために、僕はしゃがみ込んだ。
「ありがとう」
その目を見て、胸が激しく高鳴る。
こんなに可愛らしい目をしていたなんて、メガネが厚いせいでちっとも知らなかった。
彼女の綺麗な瞳が真っ直ぐ僕に向けられている。
「あの、あたしの、メガネ…」
「え!? あ、ああ! あそこだ! はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
人前で転んでしまったことが恥ずかしかったのか、彼女はそのまま教室へと駆け込んで行く。
僕はポカンとその場に取り残された。
畑中早苗さん、か…。
ふと、初恋の人が頭をよぎる。
さっちゃんの「さ」は、早苗の「さ」…?
なんて、まさかね。
そんな上手い話、あるわけがない。
僕は苦笑いをしながら自分の教室へと戻る。
第2話「募る想い」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/
「僕が、君のお婿さんになってあげる」
「なんか男らしくないー」
それならと、僕は僕なりに頭を捻る。
じゃあ、これならどうだろう?
「…一生、君を守るよ」
「それだったら、まあ、いいかな」
あの頃は毎日のように遊んでいたっけ。
僕の初恋はとても早くて、当時はまだ3歳だった。
お相手は近所に住む同い年の子で、名前はさっちゃん。
黒いふわふわの髪が印象的な、明るい女の子だ。
マセているというか、あの時は子供ながらに相思相愛で、結婚の約束までしてたっけ。
「あたしが16歳になったら結婚しよー!」
「ダメだよ、さっちゃん。男は確か、18歳にならないと、結婚できないんだよ」
「じゃあ、なおくんが18歳になったらね!」
「うん!」
「いつなるの?」
「えっとね、えっとね、今3歳だから、ずっと先の3月!」
「どんぐらい先?」
「わかんない。18歳になったら!」
それで、近所の大桜の根元に2人で作った婚約指輪を埋めたんだった。
懐かしいなあ。
今もまだ埋まっているんだろうか。
さっちゃんは、元気にしてるかなあ。
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なおくん、今頃どうしてるのかなあ。
凄くカッコよくなってたりして。
あの頃、あたしのせいで肩を大怪我しちゃってたけど、傷になってないかな。
女の子ってゆうのはどんなに幼くても女の子だ。
まだ3歳だったけど、あたしはそのときからお洒落するのが大好きで、いつもお気に入りの帽子を被っていた。
なおくんという同い年の男の子のことが大好きで、その帽子も彼のために身に付けていたものだ。
当時、あたしたちは両想いで、今となっては恥ずかしいんだけど、いつでも一緒にくっついて遊んでた。
公園なんかにも行ったし、近所の高校の裏に丘があって、そこでもちょくちょく探検ごっこしてたっけ。
桜の花びらがまるで大雪みたいに降ってて、凄く綺麗だった。
「あっ!」
突然吹いた風に、お気に入りの帽子が飛ばされる。
帽子はふわふわと空に上って、やがてゆっくりゆっくり、木の葉みたいに右に左にと揺られながら落ちてきた。
崖から突き出た岩に、ふわっと帽子が着地して、あたしは泣き出しそうになる。
大人でも手が届かないぐらいの高さに、帽子が引っかかってしまったからだ。
「ちょっと待ってて、さっちゃん」
なおくんが迷うことなく崖にしがみついた。
「いいよう! なおくん、誰か呼ぼうよう!」
「大丈夫! すぐ取るから待ってて!」
落ちたら死んじゃう!
なんて、今となっては有り得ない危機感を、その時は持ったものだ。
それでも当時は幼いながらも真剣に心配してて、あたしはずっと声を張り上げ続けた。
「もういいよう! なおくん! 降りてきてよう!」
「平気平気! 落ちるわけな…!」
そして彼は落ちた。
なおくんは帽子を取るときに手を伸ばしすぎたせいで、バランスを崩してしまったのだ。
なおくんの左肩から血が滲んでいるのを見て、あたしは帽子のことなんかどうでもよくなって、大泣きしながら大人の人を呼びに走り回った。
何針縫ったとかなんとか。
後日になって、親がお詫びのために、あたしと一緒になおくんの家まで行ったんだったなあ。
なおくんは怪我をしたにもかかわらず、いつも通りの笑顔で、「はいこれ!」って帽子を返してくれた。
あたしたちは絶対に結婚するんだって、お互い決めてて、それは運命なんだって当たり前のように思ってて…。
でも、そうじゃなかった。
あたしのパパが転勤することになって、この町を引っ越さなきゃいけなくなった。
「なおくん、ごめんね。ごめんね」
「やだ! さっちゃんが遠くに行っちゃうの、やだよ! いつか帰ってくる?」
「わかんない…」
「じゃあ僕が18歳になっても結婚できないじゃん! さっちゃんなんて、嫌いだ!」
「なおくん…」
あれが最後の大喧嘩だったなあ。
向かい合わせになった電車の席に座り、あたしはママの横でしょんぼりと下を向いていた。
この町を出ることなんかよりも、大好きななおくんにもう逢えないことと、そのなおくんに嫌われてしまったことが悲しくて悲しくて、とてもじゃないけど顔を上げることができなかった。
目を閉じると、今にもなおくんの声が聞こえてきそうな気がする。
「さっちゃーん!」
そう。
なおくんはいつもあたしの名を呼んでくれてた。
「さっちゃーん!」
よほどなおくんに逢いたいのか、錯覚の声が大きくなってきているような気がする。
「さっちゃーん!」
え?
本当に聞こえてる…?
車窓を押し上げ、身を乗り出す。
そこには、息を切らせたなおくんの姿が。
「なおくん!? なんで!?」
「さっちゃん、これ!」
なおくんが手渡してくれたのは、茶色いクマのぬいぐるみだ。
「プレゼント! 大事にしてね」
「なおくん…」
「また逢えるよね? それまで寂しいと思って、ぬいぐるみ」
「なおくん! 大好きだよ! また逢おうね! 絶対絶対逢おうね!」
「うん! 待ってるよ! 元気でね! …元気でね、さっちゃん!」
発車を知らせるベルがなって、やがて電車が進み始める。
なおくんは、電車の速度に合わせて駆け足になった。
あたしも座席から降りて、車内を進行方向とは逆に走り出す。
手を、大きく大きく振りながら。
あれから14年、かあ。
懐かしいなあ。
今になって彼のことを思い出す理由が、あたしにはあった。
「間もなく~、桜ヶ丘~、桜ヶ丘~」
またまたパパの都合で、あたしたち一家は元の町、この桜ヶ丘に戻ってくることになったのだ。
さすがに街並みは昔のままじゃない。
なおくんの家も、どの辺りなのか思い出せないし、すぐに見つかるとも思えない。
けど、逢えたらいいな。
なんてことを葉書に書き連ね、ポストに投函する。
これがラジオに採用されて、運命の人に聴いてもらえますようにと祈りを込めて。
あたし、帰ってきたよ、なおくん。
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「ちょ、やめてくださいっ!」
「ああ~ん? いいじゃねえかよ~? ちょっと付き合えよ、ね~ちゃ~ん、コラァ~」
なんだか穏やかじゃない声を聞いたような気がして、反射的に僕はビルとビルの間を覗き込んだ。
思わず息を呑む。
女の子が、2人組の不良に絡まれているじゃないか!
「お茶しに行こうぜ~? カワイコちゃ~ん。あっあ~ん?」
「やめてください! は、離して…!」
女の子は壁に背を付けていて、2人がそれに覆いかぶさるような体勢になっている。
不良の片方が彼女のメガネを取って地面に放る。
「ちょ…! なにするんですか!?」
「言うこと聞かねえと、もっと酷いぜ~? コラァ~」
は、早く止めに入らないと!
僕は震える足をガクガクさせながら前に出した。
「や、やめなよ! 嫌がってるじゃないか!」
「ああ~ん?」
不良たちが僕に注目する。
このままどうにか2人をおびき寄せて、女の子が逃げられるようにしないと…!
僕はごくりとツバを飲んだ。
「嫌がってるのを無理矢理連れて行くのは、よくないよ」
「なんだあ? テメー、生意気じゃねえかコラァ!」
「ぶっ飛ばすぞコラァ!」
胸ぐらを掴まれ、壁に押し付けられる。
横目をやると、女の子は胸の前で手を組みながら、その場でおろおろと佇んでいる。
なにやってんだ!
そのままどっかに逃げてくれ!
「テメー! よそ見してんじゃねえぞコラァ!」
僕を壁に押し付けている男が拳を振り上げた。
ばきっ!
という音が頭の中に響いて、僕は地面に尻餅を付く。
「いてて…」
「カッコ付けてっからそういう目に合うんだコラァ!」
「西高の風神テツと雷神カズをナメんじゃねえぞコラァ!」
そのとき、「ピー!」と甲高い高音が鳴り響く。
「こらー! お前ら、そこで何やってる!?」
お巡りさんだ!
助かった!
不良たちがうろたえる。
「やっべえ! ポリ公だ!」
「お、覚えてやがれ!」
警察官に追われ、不良たちはどこかに走り去っていった。
「あの…」
胸の前で手を組んだまま、女の子がこちらに歩み寄ってくる。
彼女はハンカチを取り出すと、それをおずおずと僕に差し出してくれた。
「痛い、ですよね? すみませんすみません」
「いやいや、僕は大丈夫。それより、君は? 乱暴なこと、されなかった?」
「あ、あたしは大丈夫です」
「そっか、ならよかった…」
女の子を見ると、彼女はさっき外されたメガネを拾ったらしい。
いつの間にか分厚くてまん丸なメガネをかけている。
かなり目が悪いようだ。
「痛く、ないですか?」
「大丈夫大丈夫!」
差し出されたハンカチで僕は口元を拭い、よろよろと立ち上がる。
「あの、ありがとう、ございました」
うつむいたまま、彼女は小声でそう言った。
自分のせいで僕が殴られてしまったのだと、責任を感じているんだろう。
暗い声色だった。
「大丈夫だよ、僕は。あ、ごめん。ハンカチ、汚しちゃったね。洗って返すよ」
「いえ! 大丈夫です!」
あまりに強く言い切られてしまい、ついハンカチをそのまま返す。
じわじわと、危機が去ったことを実感した。
なんだか安心してしまい、僕は思わず本音を口にする。
「無事に済んでよかった。…けど、怖かった~」
その一言に彼女はクスリと笑い、やがて僕らは2人で大笑いした。
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「あの、お名前、教えてください」
訪ねると彼は、
「いやいや、そんな! 名乗るほどの者じゃないよ! たいしたことできなかったしね」
そう遠慮して、そそくさとどこかに行ってしまった。
「あ、待ってくだ…!」
しかし言うのが遅くて、彼の後ろ姿はあっという間に雑踏へと消えた。
「なんでもっとちゃんとお礼言えなかったのよ~! あたしのばか~! …あれ?」
さっき彼が転んでいたところに、何か落ちてる。
なんだろう?
拾い上げてみる。
それは生徒手帳だった。
手帳には見覚えがある。
あたしと同じ、桜ヶ丘学園の生徒手帳だからだ。
彼のかも知れないと思って中を開くと、案の定。
優しげな目をしたあの人が写っている。
「近藤、直人…?」
まさかね。
あの人が実はなおくんだった、なんて話が出来すぎてる。
あたしはクスリと笑って、歩き出す。
手帳にある住所に向かって、さっきのヒーローに落し物を届けるために。
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生徒手帳を届けてくれた彼女は畑中早苗と名乗った。
「わざわざ、ありがとう」
「いえ、とんでもないです!」
彼女はあたふたと両手をバタバタ降って、その振動でズレたメガネを慌ててかけ直す。
「助けてもらったのに、ちゃんとお礼できなくてすみません!」
「そんな! 気にしないでよ。なんだか僕のほうが恐縮しちゃうからね」
「あ、はい! そうですよね!? すみません!」
「いやいやいやいや」
「じゃああたし、これで失礼しますっ! さっきは本当にありがとうございました!」
ガバッと勢い良くおじぎをして振り返ると、そのまま走って、彼女は行ってしまった。
とっても慌ただしい子だなあ、とその時は思ったものだ。
本来ならこの縁はここで終わるんだろうけど、でもそうじゃなかった。
2年生の秋。
印象的なメガネを廊下で見かけ、ふと立ち止まる。
「あ、あの時の…」
廊下で同時に口をポカンと開け、しばらく2人とも固まってたっけ。
「桜ヶ丘の生徒だったんだ」
と、僕。
すぐ隣の教室に畑中さんがいたことを、当時の僕は知らなかったのだ。
「あたし、転校してきたばかりなんです」
「あ、そうだったんだね」
廊下の真ん中で彼女は指をもじもじと絡ませ、うつむいていた。
そんな時、次の授業を知らせるチャイムの音が。
「あ、教室に戻ら…、きゃあ!」
焦って急ぎ足になったからなのか、彼女は何もない床につまずいて転んだ。
その反動で、畑中さんのメガネが落ちる。
「大丈夫!?」
手を貸すために、僕はしゃがみ込んだ。
「ありがとう」
その目を見て、胸が激しく高鳴る。
こんなに可愛らしい目をしていたなんて、メガネが厚いせいでちっとも知らなかった。
彼女の綺麗な瞳が真っ直ぐ僕に向けられている。
「あの、あたしの、メガネ…」
「え!? あ、ああ! あそこだ! はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
人前で転んでしまったことが恥ずかしかったのか、彼女はそのまま教室へと駆け込んで行く。
僕はポカンとその場に取り残された。
畑中早苗さん、か…。
ふと、初恋の人が頭をよぎる。
さっちゃんの「さ」は、早苗の「さ」…?
なんて、まさかね。
そんな上手い話、あるわけがない。
僕は苦笑いをしながら自分の教室へと戻る。
第2話「募る想い」に続く。
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/458/
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参照リンク。
【ベタを楽しむ物語】春に包まれて
http://yumemicyou.blog.shinobi.jp/Entry/380/