夢見町の史
Let’s どんまい!
March 01
店のお客さんから無料でチケットを譲ってもらったことが、俺にとって良い機会となった。
女子プロレスラーである豊田真奈美さんの試合を生で拝見させていただいた。
試合はどれも本当に面白く、笑える演出あり、流血あり、迫力ありで、真奈美さんが時間切れで引き分けてしまったことが残念だけれども、気持ちがすこぶる充実する。
リング上の真奈美さんは当たり前だけど恰好良い。
よくぞこんな大物がうちのスナックを手伝ってくれているものである。
俺は喫煙所で煙草を吸い、余韻に浸る。
貼られているプロレスのポスターを眺めていると、ふと知らない人に声をかけられた。
「今、何時ですか?」
俺は男性に腕時計を見せながら、今の時間を口にする。
彼は俺よりも年上で、おそらく40代だろうか。
「まだ選手が帰らない。時間がかかるなあ」などとつぶやいている。
喫煙所の壁は透明なアクリル板で、その向こうにはファンにサインをし、一緒に写真を撮っている真奈美さんが望める。
もちろん、他のレスラーもファンサービスに余念がない。
この男性は、そんな選手の誰かを好いていて、お目当てのレスラーが手隙になるのを待っているのだろうか。
時間潰しのために話し相手が欲しかったのかも知らない。
彼が、俺にはよく解らないことを言い出した。
どこそこの団体はわけの解らない選手が多いとか、何とか。
わけが解らないのはあなたですとも言えず、俺はただただ「へえ、そうなんですか」と適当に相槌を打つ。
男性はかなりプロレスに熱を上げている方のようで、言ってることがさっぱりだ。
一応「実は僕、女子プロ見るようになったの最近なんで、まるで知識がないんですよね」と断りを入れてはおいたけど、彼の熱弁は留まることを知らない。
やがてはある女子プロレスラーのことを軽く見るような発言が出た。
その選手というのが、さっき真奈美さんが対戦した相手だ。
「もしかして」
俺は目を丸くして訊く。
「豊田選手のファンなんですか?」
「うん、そう」
「へえ。僕も今日、豊田選手を応援しに来たんですよ」
「え!?」
今度は男性が目を見開く。
「他の美形レスラーよりも豊田真奈美を応援しに?」
「ええ、ファンなんで」
「へえ!」
思いの他、喰らい付いていらっしゃった。
これは下手に「真奈美さんとは直接の知人ですよ」とか「一緒に働いてますよ」とか「正月にパチンコで負けてうちに遊びに来ました」とか、余計なことは言わないほうが良さそうだ。
俺と真奈美さんが通じていることを知られれば、きっと「今すぐ紹介してくれ」みたいな流れになってしまい、ややこしい話になってしまうだろう。
俺は真奈美さんと無関係であるように振る舞った。
煙草は吸い終わってしまったので、真奈美さんに挨拶をしてから帰るつもりだったが、予定変更だ。
まずは彼からどうにかして離れなくては。
さて、でもどうやって?
男性は相変わらずお喋りを続けていて、終わりそうもない。
「何がきっかけで豊田真奈美のファンになったんですか?」などと訊かれたら、俺は咄嗟に適当な嘘をつけるだろうか?
難しい。
早く彼から離れなくては。
俺と真奈美さんが知り合いであることがバレる前に、トイレにでも行くか?
と思った矢先、真奈美さんがアクリル板の向こうから真っ直ぐに俺を見て、コンコンと壁をノックした。
どうしてそのタイミングで?
真奈美さんは手を招いて「こっちに来い」と催促をする。
確かに俺は男性から逃れようとしていたけれど、もっとこう自然なシチュエーションで喫煙所から出たかったのに。
「試合どうだった? 楽しめた?」
「最高に面白かった!」
実は今の状況も相当面白いことになっているけどな。
横目で確認をすると、さっきの男性が俺の顔をめちゃめちゃ直視していらっしゃる。
俺は忍者のように、素早く建物から出ることに決めた。
まさか試合のあとに緊張させられるとは思わなかった。